立場 / ギリシアに始まる哲学

ハイデガー

この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。

01

問いごとの答え(22件)

死んだらどうなるのか

死後がどうなるかを論じない。人は自分の死へ向かう存在であり、そのことを引き受けるかどうかが問われる、という形に問いを変える。出典:『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)

死者と生者はつながれるのか

他者の死は経験できるが、それは自分の死の代わりにならないと論じる。交わりではなく、自分の死へ向き直ることを問う。出典:ハイデガー『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)

生まれる前の私はいたのか

前を問わない。理由を与えられないまま投げ入れられているところから、問いが始められることになる。出典:ハイデガー『存在と時間』第29節(被投性)

名を残すことに意味はあるのか

他者との差を気にすることが、世人に支配された在り方だと論じた。名声は、その支配の一部になる。出典:ハイデガー『存在と時間』第27節(世人)

祈りは届くのか この問いには答えない

この問いを立てない。存在をどう問うかのほうへ向かい、神に呼びかける営みそのものは主題に入っていない。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年

意識はどこから来るのか

意識という語から問いを立て直す。世界のなかで関わりながら在ることのほうへ、問いが移し替えられている。出典:ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)

他者とどう関わるのか

人は初めから他者とともに在るとされる。ただし、その在り方が世間に流されている場合も問われている。出典:ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)

運命は決まっているのか

決まっているかを問わない。投げ入れられているところから、そこでどう在るかへ問いが向けられている。出典:ハイデガー『存在と時間』第29節(被投性)

生まれ変わりはあるのか

論じない。問いを、自分の死へ向き直ることのほうへ移し替えている。その先に何があるかは、主題として扱われていない。出典:ハイデガー『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)

欲は満たすべきか、減らすべきか

欲を主題としない。世間の尺度に沿って何かを求め続けることのほうが、むしろ正面から問い直される。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年

私とは何か

私を実体としてではなく、世界のなかで何かに関わりながら在ること、そのはたらきそのものとして捉え直している。出典:ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)

神とは何か

神を主題としない。存在をどう問うかのほうへ向かい、これまでの神の論じ方そのものを退けることになる。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年

幸せとは何か

幸せを主題としない。本来の自分として在るかどうかのほうへ、問いが移し替えられている。問いの向きが変えられている。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年

生きるとは何か

生きることは、自分の死へ向き直りながら、そのつど引き受けることだとされる。目的は与えられない。そのつど引き受けるほかない。出典:ハイデガー『存在と時間』(先駆的覚悟性)

現実は心が作るのか

世界を、物の集まりとしてではなく、人が関わりながら在る場として捉え直す。作る作らないの問いを外す。出典:ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)

成功とは何か

成功を主題としない。世間の尺度に沿って生きることのほうが、むしろ問い直されている。世間の尺度が問い直される。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年

時間とは何か

時間を、人が将来へ向かって在るあり方の側から捉え直した。将来・既在・現在の三つが結ばれるとする。出典:ハイデガー『存在と時間』第65節(気遣いの存在論的意味としての時間性)

宇宙とは何か

宇宙の構造を論じない。世界を、物の集まりとしてではなく、人が関わりながら在る場として捉え直す。問いは関わり方のほうへ移る。出典:ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)

天国・地獄・浄土はどこにあるのか

死後の行き先を論じない。どこへ赴くかという問いを、自分の死へ向き直ることのほうへ移し替えている。場所は主題にならない。出典:ハイデガー『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)

善悪はどこで決まるのか

規範を立てることを主題としない。本来の自分として在るかどうかのほうへ、問いの向きが移し替えられている。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年

なぜ生まれてくるのか

理由を与えられないまま投げ入れられている、というところから始める。なぜかは問わず、そこからどうするかを問う。出典:ハイデガー『存在と時間』第29節(被投性)

なぜ苦しみがあるのか

苦しみを主題としない。ただし不安を、世界のなかで在ることが露わになる場面として重く扱っている。出典:ハイデガー『存在と時間』第40節(不安)