軸 4 / 神をめぐる問い

祈りは届くのか

祈るという行いは、世界のほとんどの伝統にあります。ただし「何に向かって、何を期待して祈るのか」は同じではありません。願いを聞き届ける相手を置く立場、置かない立場、祈りを別のものへ置き換える立場を、同じ体裁で並べます。判定はしません。

01

四十二の立場が、それぞれ何と答えているか

並びは成立の古い順で、順位ではありません。一つの答えは同じ長さにそろえてあります。資料の多い立場ほど長くはなりません。

インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(ヴェーダーンタ)
祈りは真の自己に向かう途上に置かれる。最も高い段階では、祈る者と祈られる者の隔たりが解かれるとされる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
神への祈りを解脱の道に組み込まない。見る側と見られる側を見分けることのほうが、道として説かれている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
ヒンドゥー教
(信愛の道)
葉でも花でも水でも、愛をもって捧げれば受け取られるとされる。供物の値打ちではなく、捧げる心が問われている。出典:『バガヴァッド・ギーター』9章26節
ジャイナ教
解脱した魂は世界に働きかけない。祈っても応答は返らないとされ、儀礼は祈る側の修養として営まれる。出典:ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』10章5節
仏教・上座部
祈願で行き先は変わらないとされる。池に沈んだ岩に浮かべと祈っても浮かばない、という喩えで説かれている。出典:相応部42.6(アシバンダカプッタ経)
仏教・説一切有部
同じ枠組みを取る。行いの結果がどう働くかを要素に分けて分析し、祈りを別の力としては立てていない。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』業品
仏教・犢子部
この問いには踏み込まない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられている。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
仏教・唯識
祈りそのものを主題としない。心の働きの構造を説く枠組みのなかで、行がどこに位置するかが論じられている。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
仏教・浄土教
称名は願い事の言葉ではないとされる。すでに向けられている仏の呼び声に、応えて称えるものだと説明されている。出典:浄土真宗本願寺派の公式解説/『無量寿経』第十八願
仏教・禅(道元)
何かを願うために坐るのではないとされる。坐ることが手段ではなく、そのままであるという立て方を取る。出典:道元『弁道話』1231年
仏教・チベット
祈りの言葉と所作が細かく体系化されている。ただし向かう相手は、心の本性の現れとしても受け取られる。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)
シク教
神の名を念じることが、三つの務めの一つに数えられる。願うことよりも、憶えていることに重心が置かれる。出典:『グル・グラント・サーヒブ』1245ページ(三つの務め)
中国に始まる系統
儒教
天に罪を得たならば祈る所はないとされる。孔子は病のときの祈願にも、私の祈りは久しいと答えている。出典:『論語』八佾篇 第13章/述而篇 第35章
道教(荘子)
作為をやめることが説かれる。願って何かを動かそうとする構えそのものが、退けられる側に置かれることになる。出典:『荘子』斉物論篇
日本
神道(古典神話)
祝詞が古くから伝えられている。ただし神に願いを申し上げる形と、神の意を宣り下す形の両方が含まれる。出典:『延喜式』巻第八 祝詞(927年撰進)
神道(祖霊の観念)
盆や彼岸に迎え、送る。願い事というより、来てもらうこと自体が営みの中心に置かれて続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
朝・午後・夕の定時の祈りが定められている。神殿が失われたのち、犠牲に代わるものとして位置づけられてきた。出典:ミシュナ『ベラホート篇』4章1節/バビロニア・タルムード ベラホート26b
ユダヤ教(カバラー)
祈りは、下から上へ働きかけるものとして語られる。人の行いが上の世界に及ぶという枠組みが置かれている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
キリスト教
(カトリック)
主の祈りが型として与えられている。聞き入れられないときは、求め方のほうが問い直されると説明される。出典:マタイ6章9〜13節/『カトリック教会のカテキズム』2734〜2741
キリスト教(正教)
短い祈りを絶えず繰り返す道が伝えられてきた。願うことよりも、名を憶え続けることが重んじられる。出典:ディアドコス『霊的知識と識別についての百章』(『フィロカリア』第1巻所収)
キリスト教
(プロテスタント)
祈りは信仰の不断の訓練だとされる。神の意にかなうことを求める姿勢が、規則として説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十章
イスラム教(スンナ派)
われに祈れ、われは応えようと記されている。定時の礼拝と、時を選ばない願いの祈りが区別されている。出典:クルアーン 40章60節・4章103節
イスラム教(シーア派)
同じ枠組みを共有する。加えて、預言者の家系に連なる者への取り次ぎの願いが重んじられてきた点が異なる。出典:サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)
イスラム教
(スーフィズム)
神の名を繰り返し唱えることが道とされる。願いを叶えるためではなく、隔たりを取り去るために行われる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
ギリシアに始まる哲学
プラトン
祈りは、神々に善きものを求めることとして語られる。ただし何が善きものかを知ることが先に置かれる。出典:プラトン『パイドン』
エピクロス
神々は在るが、人の世に関わらないとされる。祈って何かが動くという考え方は取られず、恐れる相手にもならない。出典:エピクロス『メノイケウス宛書簡』
ストア派
出来事は理法によって定まるとされる。祈るとすれば、それを受け取る自分の構えのほうに向けられる。出典:エピクテトス『提要』第1章
デカルト
祈りを主題としない。神の存在は論証の対象として扱われ、祈りが届くかどうかは論じられていない。出典:デカルト『省察』第三・第五省察
スピノザ
自然に目的は無く、祈りによって順序が変わることもないとされる。祈る側の心の変化として捉え直される。出典:スピノザ『エチカ』第一部 付録
カント
祈りを、神を動かす手段としては認めない。道徳的な心構えを整えるはたらきとして位置づけ直している。出典:カント『実践理性批判』
ハイデガー
この問いを立てない。存在をどう問うかのほうへ向かい、神に呼びかける営みそのものは主題に入っていない。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年
実存主義
(サルトル・カミュ)
祈る相手を置かない。応えるものが無いところで、それでもどう生きるかのほうへ問いが向けられている。出典:サルトル『実存主義とは何か』1946年
心理学
ユング
届くかどうかは判定しない。祈るという行いが心にもたらす働きのほうを、観察できる事実として重く受けとめた。出典:ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店)
フランクル
応答の有無は論じない。人が意味を求めて呼びかけること自体を、心の深いところの働きとして置いている。出典:フランクル『識られざる神』「無意識の宗教性」(佐野利勝・木村敏訳・みすず書房)
科学
神経科学
祈るときの脳の働きは観察の対象になる。ただし相手に届いたかどうかは、そもそも扱う範囲の外に置かれる。出典:カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年(原著第6版2021年)
進化生物学
この問いを立てない。祈る行いが人に広く見られることは、集団のふるまいとして記述の対象になる。出典:フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年
宇宙論
この問いを扱う枠組みを持たない。物質とエネルギーの振る舞いを記述する理論であり、祈りを語る語彙を持たない。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
量子力学
この問いに答えを持たない。粒子の振る舞いを記述する理論であり、祈りを扱うための枠組みは含まれていない。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
現代の言説
神智学
思いは層をまたいで働くとされた。祈りも、その働きの一つとして枠組みのなかに位置づけられている。出典:H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年
現代スピリチュアル
願うことで現実が動くという語り方が広く用いられる。相手は神とも宇宙とも呼ばれ、語り手ごとに異なる。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
臨死体験の研究
祈りが届くかは扱わない。報告を集めて記述することと、その意味づけとを、はっきり分けて扱っている。出典:AWARE研究 2008〜2014
信仰を持たない立場
唯物論・無神論
届く相手がいないとされる。祈りは祈る側に起きる出来事であり、外に効き目を持つものではないとされる。出典:ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)
02

どこで割れているか

一つめ 聞き届ける相手を置くか

一神教とヒンドゥー教の信愛の道は、応える相手をはっきり置きます。置かない側もあります。上座部は、池に沈んだ岩に浮かべと祈っても浮かばないという喩えで、祈願が行き先を変えないと説きます。ジャイナ教では、解脱した魂は世界に働きかけません。同じインドのなかで、この線が正面から分かれています。

二つめ 祈りを、別のものへ置き換える立場がある

浄土教は、称名を願い事の言葉ではないとします。すでに向けられている呼び声への応答だという説明です。正教は短い祈りを絶えず繰り返す道を伝え、スーフィズムは神の名を唱えることを隔たりを取り去る行とします。シク教は、願うことより憶えていることに重心を置きます。祈りの形は残しながら、中身が願望から別のものへ移っています。

三つめ 祈る前に、生き方が問われるとする立場

孔子は、病に伏したとき祈願を勧められて「私が祈るのは久しい」と答えたと記されます。八佾篇には、効き目のありそうな神に取り入る発想を退け、天に罪を得たならば祈る所はないとあります。カントは祈りを神を動かす手段としては認めず、道徳的な心構えを整える働きとして位置づけ直しました。祈りを否定するのではなく、その手前を問う形です。

03

原典に降りる

人が大きな岩を深い池に投げ入れ、大勢が集まって手を合わせ、拝み、祈り、めぐり歩いて
「岩よ、浮かび上がれ。岸へ来い」と唱えたとしよう。その岩が浮かび上がることがあるだろうか。

相応部42.6 アシバンダカプッタ経(要旨)

西方のバラモンが、死者を天界へ送れると称したのに対して示された喩えです。祈願を退けているのは、行いの結果が行き先を定めるという立場からです。なお同じ伝統に、生きとし生けるものの幸いを願う慈しみの修習(『慈経』小部・経集1.8)があります。願うことすべてを退けているのではありません。

王孫賈が問うた。「奥の神に媚びるより竈の神に媚びよ、とはどういう意味でしょうか」
先生が答えた。「そうではない。天に罪を得たならば、祈る所はないのだ。」

『論語』八佾篇 第13章

効き目のありそうな相手を選ぶという考え方が、正面から退けられています。祈りが届くかどうかより先に、祈る者の側が問われる形です。

04

掘って分かったこと

祝詞は、願い事の言葉だけではありません

『延喜式』巻第八に二十七編の祝詞が収められています。文体は二つに分かれます。神に申し上げる形(奏上体)と、集まった人々に神の意を宣り下す形(宣命体)です。どちらが本来かは学説が分かれており、決着していません。ですから01節では「両方が含まれる」と書き、どちらかに寄せていません。

「聞き入れられない祈り」を、教えの側が扱っています

祈りが叶わないことをどう受け取るかは、外から立てられた問いではありません。カトリックのカテキズムは、これを独立した項目として扱います(2734〜2741)。求めても得られないのは求め方によるとし、心が分かれていれば応えられないと説明します。内側から先に問われている論点です。

05

出典の確認状況

この節は、読者に見える形で置いています。どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。

出典使った箇所状況
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節701節照会済
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)01節照会済
『バガヴァッド・ギーター』9章26節01節照会済
ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』10章5節01節照会済
相応部42.6(アシバンダカプッタ経)01節照会済
世親『阿毘達磨倶舎論』業品01節照会済
『倶舎論』破我品に引かれた説01節照会済
世親『唯識三十頌』(玄奘訳)01節照会済
護法釈『成唯識論』01節照会済
浄土真宗本願寺派の公式解説01節照会済
『無量寿経』第十八願01節照会済
道元『弁道話』1231年01節照会済
『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)01節照会済
『グル・グラント・サーヒブ』1245ページ(三つの務め)01節照会済
『論語』八佾篇 第13章01節照会済
述而篇 第35章01節照会済
『荘子』斉物論篇01節照会済
『延喜式』巻第八 祝詞(927年撰進)01節照会済
柳田国男『先祖の話』1946年01節照会済
ミシュナ『ベラホート篇』4章1節01節照会済
バビロニア・タルムード ベラホート26b01節照会済
『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)01節照会済
マタイ6章9〜13節01節照会済
『カトリック教会のカテキズム』2734〜274101節照会済
ディアドコス『霊的知識と識別についての百章』(『フィロカリア』第1巻所収)01節照会済
カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十章01節照会済
クルアーン 40章60節・4章103節01節照会済
サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)01節照会済
ガザーリー『宗教諸学の再興』01節照会済
プラトン『パイドン』01節照会済
エピクロス『メノイケウス宛書簡』01節照会済
エピクテトス『提要』第1章01節照会済
デカルト『省察』第三・第五省察01節照会済
スピノザ『エチカ』第一部 付録01節照会済
カント『実践理性批判』01節照会済
ハイデガー『存在と時間』1927年01節照会済
サルトル『実存主義とは何か』1946年01節照会済
ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店)01節照会済
フランクル『識られざる神』「無意識の宗教性」(佐野利勝・木村敏訳・みすず書房)01節照会済
カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年(原著第6版2021年)01節照会済
フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年01節照会済
プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年01節照会済
サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節01節照会済
H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年01節照会済
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」01節照会済
AWARE研究 2008〜201401節照会済
ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)01節照会済
『慈経』小部・経集1.803節所在を確認