軸 8 / 幸せをめぐる問い

幸せとは何か

手に入れるものなのか、もともとそうであるものなのか。条件が整えば訪れるのか、条件によらないのか。世界の宗教・哲学・科学・現代の言説が何と答えてきたかを並べます。正しい・正しくないの判定はしません。

01

答えを並べる

同じ名前の宗教でも、この問いでは答えが割れます。割れているところまで降りて書きます。割れていないところは割りません。一つの答えは長さをそろえてあり、資料の多い立場ほど長くなることがないようにしています。

インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(ヴェーダーンタ)
幸せは手に入れるものではなく、本来そうであるものとされる。覆いが取れたときに、おのずと現れる。求める向きが、そもそも逆になる。出典:『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』3章6節/『バガヴァッド・ギーター』2章47節
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
幸せを積極的に定義しない。苦が終わることが目指され、そこに残るものが解放と呼ばれている。積極的な定義は意図して避けられる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
ヒンドゥー教
(信愛の道)
幸せは、神との関わりのうちに与えられるとされる。条件が整うことによって得られるのではない。与える側が先に立っている。出典:『バガヴァッド・ギーター』
ジャイナ教
魂は本来、知る力と安らぎを備えているとされる。覆いを取り除いたところに、幸せが現れてくる。取り除く作業が、そのまま道になる。出典:ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』(2世紀)
仏教・上座部
楽を求めることそのものが苦の因とされる。渇きが尽きた状態が、最も高い安らぎと呼ばれている。求めないことが近道とされる。出典:『法句経』203・204偈
仏教・説一切有部
同じ枠組みを取りながら、心の状態を要素として細かく分類した。安らぎもまた分析の対象になる。安らぎも要素として分けられる。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』分別界品
仏教・犢子部とくしぶ
幸せについては部派に共通する枠組みを用い、そこを離れる独自の主張を残してはいない。関心は輪廻の主体の側にあった。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
仏教・唯識
幸せも苦しみも心の現れとされる。外の条件を整えることでは届かない、という形の説明になる。向きは外ではなく内へ戻される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
仏教・浄土教
この身のままでは満たされないと見る。委ねたところに、安らぎが与えられると説かれていく。自力での達成は置かれていない。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
仏教・禅(道元)
幸せを別に立てない。いま坐っていること、食べていることが、そのまま満ちているとされる。別に探すべき先を立てない。出典:道元『正法眼蔵』
仏教・チベット
自分だけの幸せは長続きしないとされる。他者の幸せを願うことが、そのまま道に組み込まれる。他者の幸せが先に置かれる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
シク教
幸せは、神の意志を受け入れたところに現れるとされる。境遇そのものによるのではないとされる。受け入れることが鍵になる。出典:『グル・グラント・サーヒブ』
中国に始まる系統
儒教
幸せを主題としない。務めを果たし、学び続けることのうちに、おのずと喜びがあるとされている。喜びは結果として現れてくる。出典:『論語』学而篇
道教(荘子)
幸せを求めること自体を退ける。分けて比べるのをやめたところに、そのままの安らぎがあるとされる。比べることをやめるだけでよい。出典:『荘子』斉物論篇
日本
神道(古典神話)
幸せを定義しない。清らかであること、明るく直くあることが、望ましい状態とされてきた。定義よりも、状態が語られる。出典:『古事記』/祝詞
神道(祖霊の観念)
家が続き、実りがあり、無事であることが、幸せの形として長く受けとめられてきた。暮らしの実感に近い形をとる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
幸せは、律法に従って生きる日々のうちに置かれる。この世を離れたところには求められない。この世のうちに置かれている。出典:トーラー/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
ユダヤ教
(カバラー)
幸せは、魂が本来の場所へ近づくことに伴うとされる。段階を上るにつれて深まるとされている。段階として描かれていくことになる。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
キリスト教
(カトリック)
人の心は神のうちにしか安らがないとされる。地上の善は、そこへ向かう途上に置かれている。途上であることが前提になる。出典:アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』1718
キリスト教
(正教)
幸せを、神との関わりが深まっていく状態として語る。到達点ではなく、過程として置かれる。終わりは設けられていない。出典:アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)
キリスト教
(プロテスタント)
幸せは、行いの報いとしてではなく、恵みとして受け取られる。取引としては置かれていない。行いの対価としては置かれない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
イスラム教
(スンナ派)
現世の幸せは仮のものとされる。神に従うことのうちに、真の満ち足りがあると説かれている。現世と来世がはっきり分けられる。出典:クルアーン/ハディース
イスラム教
(シーア派)
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手への愛と、悼むことのうちにも意味が置かれてきた。悼むことにも意味が置かれてきた。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
イスラム教
(スーフィズム)
幸せは、自我が薄れて神との隔てがなくなることだとされる。恍惚として語られることもある。隔てが消えることが目指される。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
ギリシアに始まる哲学
プラトン
幸せは、魂の各部分が正しい秩序にあることだとされる。快の多さによって測られるのではない。秩序のほうが先に問われる。出典:プラトン『国家』第四巻441c〜444e
エピクロス
幸せは、身体に痛みがなく心が乱れていない状態とされる。欲を減らすことが、その近道になる。減らすことが、そのまま近道になる。出典:エピクロス『メノイケウス宛書簡』
ストア派
幸せは、自分の力の及ぶものだけを問題にすることだとされる。外のことは幸不幸を決めない。外のことは幸不幸に関わらない。出典:エピクテトス『提要』第1章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23
デカルト
幸せを主題としない。ただし、意志を正しく用いることに満足があると書き残してはいる。主題としては前に出てこない。出典:デカルト『情念論』1649年 第148項
スピノザ
幸せは徳の報酬ではなく、徳そのものだとされる。理解が深まることが、そのまま喜びになる。理解が、そのまま喜びになる。出典:スピノザ『エチカ』第五部
カント
幸せを道徳の目的とはしない。問われるのは、幸福に値する者であるかどうかのほうである。値することのほうが先に来る。出典:カント『実践理性批判』
ハイデガー
幸せを主題としない。本来の自分として在るかどうかのほうへ、問いが移し替えられている。問いの向きが変えられている。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年
実存主義
(サルトル・カミュ)
幸せをあらかじめ定義しない。カミュは、報いのない営みのうちにも幸福を見ようとしている。定義は先に置かれていない。出典:カミュ『シーシュポスの神話』1942年
心理学
ユング
幸せを目標として置かない。心の全体がつながっていく過程のほうに、重心が置かれている。過程のほうが重く見られている。出典:ユング『自我と無意識の関係』第二部「個性化」(野田倬訳・人文書院)
フランクル
幸せは追いかけると逃げるとした。意味を果たした結果として、あとからついてくるとされる。結果として訪れるものとされる。出典:フランクル『それでも人生にイエスと言う』Ⅰ「生きる意味と価値」(山田邦男・松田美佳訳・春秋社1993年)
科学
神経科学
快や満足に関わる脳の働きは扱うが、幸せとは何かという問いそのものは立てていない。問いの形そのものが違っている。出典:ベリッジとクリンゲルバッハ「脳の快の仕組み」2015年
進化生物学
快の感覚は、生き延びることに役立った信号として説明される。目的の形では語られていない。信号として説明されるにとどまる。出典:マイア「生物学における原因と結果」1961年
宇宙論
この問いを扱う枠組みを持たない。物理の記述に、幸せを語るための語彙は含まれていない。扱う範囲の外に置かれている。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
量子力学
この問いに答えを持たない。粒子の振る舞いを記述する理論であり、幸せを扱うための枠組みではない。対象がそもそも違っている。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
現代の言説
神智学
幸せは、魂が段階を進むことに伴うとされた。一つの生のなかで完結するものとは置かれていない。一つの生では完結しないとされる。出典:神智学協会(1875年創設)
現代スピリチュアル
幸せは、本来の自分と一致している状態だとされる。語り手ごとに内容は大きく異なっている。出典は個別に添えて扱う。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
臨死体験の研究
報告に、これまで感じたことのない安らぎがあったという語りが多い。解釈は分かれたままである。研究は記録として扱っている。出典:ムーディ『Life After Life』1975
信仰を持たない立場
唯物論・無神論
幸せは、脳と身体と環境の条件から生じる状態とされる。与えられた意味は、そこに置かれない。条件の産物として説明される。出典:ラッセル「自由人の信仰」(『神秘主義と論理』江森巳之助訳・みすず書房)
02

どこで割れているか

一つめ 手に入れるのか、もともとそうであるのか

ヴェーダーンタとジャイナ教は、幸せを本来そなわっているものとします。覆いを取れば現れる、という形です。一神教は、神との関わりのうちに与えられるものとします。エピクロスとストア派は、欲と判断を整えることで近づけるものとします。三つの構えが並びます。

二つめ 条件が整うことで訪れるのか

ストア派は、外のことは幸不幸を決めないと言います。シク教は、境遇によるのではないと言います。禅は、いま坐っていることがそのまま満ちていると言います。条件から切り離す点で、この三つは一致します。一方で神道の祖霊の観念は、家が続き実りがあることを幸せの形として受けとめてきました。

三つめ 追いかけると逃げる、という指摘

フランクルは、幸せは追いかけると逃げ、意味を果たした結果としてあとからついてくるとしました。同じ構造が、いくつもの伝統に現れます。上座部は楽を求めること自体を苦の因とし、老荘は求めることを退けます。求めないことが近道だという指摘が、離れた場所で繰り返されています。

03

出典の確認状況

どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。

出典使った箇所状況
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』01節照会済
ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』01節照会済
『倶舎論』破我品に引かれた説01節照会済
世親『唯識三十頌』/護法釈『成唯識論』01節照会済
親鸞『教行信証』01節照会済
『グル・グラント・サーヒブ』01節照会済
『論語』学而篇01節照会済
カバラー文献(魂の階梯)01節照会済
エピクロス『メノイケウス宛書簡』01節照会済
スピノザ『エチカ』第五部01節照会済
カント『実践理性批判』01節照会済
神智学協会(1875年創設)01節照会済
ムーディ『Life After Life』197501節照会済
『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』3章6節/『バガヴァッド・ギーター』2章47節01節原文を確認
『法句経』203・204偈(涅槃は最上の楽)01節原文を確認
世親『阿毘達磨倶舎論』分別界品/唯円編『歎異抄』第三条01節照会済
道元『正法眼蔵』/シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)01節照会済
『荘子』斉物論篇01節原文を確認
『古事記』/祝詞/柳田国男『先祖の話』1946年01節照会済
トーラー/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード01節照会済
アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』171801節原文を確認
アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年01節照会済
クルアーン/ハディース/十二イマーム派の伝承/ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』01節照会済
プラトン『国家』第四巻441c〜444e01節原文を確認
エピクテトス『提要』第1章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻2301節原文を確認
デカルト『情念論』1649年 第148項01節照会済
ハイデガー『存在と時間』1927年/カミュ『シーシュポスの神話』1942年01節照会済
ユング『自我と無意識の関係』第二部「個性化」(野田倬訳・人文書院)/フランクル『それでも人生にイエスと言う』Ⅰ「生きる意味と価値」(山田邦男・松田美佳訳・春秋社1993年)01節章まで特定
マイア「生物学における原因と結果」1961年/プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年/サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節01節掲載誌・版元を確認
ベリッジとクリンゲルバッハ「脳の快の仕組み」2015年(『ニューロン』86巻3号)01節掲載誌と巻号を確認
ラッセル「自由人の信仰」(『神秘主義と論理』江森巳之助訳・みすず書房)01節章まで特定
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」(刊行年と版元をつけた一覧)01節系譜のページに集約
『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)01節章節を特定
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)01節章節を特定
世親『唯識三十頌』(玄奘訳)01節章節を特定
クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)01節章節を特定