軸 2 / 死をめぐる問い

死者と生者はつながれるのか

供養、祈り、墓参り、追悼。世界の宗教・哲学・科学・現代の言説が、死んだ人と遺された人のあいだに何があると述べてきたかを並べます。正しい・正しくないの判定はしません。並び順は成立の古い順で、意味はありません。

01

答えを並べる

同じ名前の宗教でも、この問いでは答えが割れます。割れているところまで降りて書きます。割れていないところは割りません。一つの答えは六十字前後にそろえてあり、資料の多い立場ほど長くなることがないようにしています。

インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(ヴェーダーンタ)
子孫が供物と水を捧げる儀礼が定められており、先祖はそれを受け取るとされる。ただし解脱に至った魂は、その往き来の外に出る。出典:シュラーッダ(祖先供養)/『マヌ法典』(前2世紀〜後2世紀)
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
儀礼や死者との関わりを主題として扱わない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
ヒンドゥー教
(信愛の道)
死者との関わりよりも、神との関わりが前面に置かれる。神に至った者は神のもとにあり、遺された者も神を通して結ばれる。出典:『バガヴァッド・ギーター』8章5節
ジャイナ教
解脱した魂は世界に働きかけない。祈っても応答は返らないとされる。儀礼は死者のためではなく、生者自身の修養として営まれる。出典:ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』10章5節
仏教・上座部
生者が積んだ功徳を死者に振り向けられるとされる。ただし受け取れる境涯は限られ、誰にでも届くわけではないと説かれる。出典:『餓鬼事経』ティロークッダ経/届く境涯の限定は『ミリンダ王の問い』
仏教・説一切有部
教理の分析を主題とし、死者との交わりを論じない。死と次の生のあいだの期間は論じられるが、生者との往き来としては扱われない。出典:『阿毘達磨倶舎論』
仏教・犢子部とくしぶ
輪廻するものが何かという一点をめぐって立てられた立場で、死者と生者の交わりについては固有の主張を残していない。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
仏教・唯識
心の深層の働きを説明する体系であり、死者との交わりを主題としない。追善の儀礼は、のちの時代に別の系統から入る。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
仏教・浄土教
浄土に往生した者は、仏のはたらきを得て再びこの世に還り、遺された者を導くと説かれる。往き来は一方通行ではない。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』
仏教・禅(道元)
死者を弔う儀礼は営むが、往き来そのものを説明しない。いまここを離れないことに重心があり、彼方との交信を語らない。出典:道元『正法眼蔵』生死巻/『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年
仏教・チベット
死後の中間の期間に、生者が唱える言葉が死者に届き、その行き先を左右すると説かれる。導くことが生者の務めとされる。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
シク教
儀礼によって死者に働きかけることを退ける。生者がなすべきは神の名を念じることであり、そこに死者の仲介は置かれない。出典:『グル・グラント・サーヒブ』(第5代グル・アルジャン編纂)

禅(道元)の欄は、道元自身の側に立って書いています。いっぽう曹洞宗の現在の公式の説明では、葬儀は「あの世へ旅立つための儀式でもあり」とされています。研究の側からは、道元らは自らの仏法を葬祭として位置づけておらず、禅宗の葬法は宋代の『禅苑清規』にはじまり、日本では後代に整えられたと指摘されています(石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」『印度學佛教學研究』35巻2号 1987年)。同じ名前のなかで、開祖の言葉と後代の儀礼が食い違う例です。どちらを「禅の答え」と見るかは、読む側にゆだねます。

中国に始まる系統
儒教
祖先を祀ることが務めの中心に置かれる。孔子は、祭るときはそこにいますがごとくせよと説いた。存否を問わず、態度を問う。出典:『論語』八佾篇 第12章
道教(荘子)
気が集まり散じるだけなので、死者という相手が別に立たない。荘子は妻の死を嘆かなかった。往き来を語る枠組みを持たない。出典:『荘子』至楽篇
日本
神道(古典神話)
黄泉から戻ろうとした話の末に、生者と死者の世界のあいだは大岩で塞がれる。行き来ができなくなった由来として語られる。出典:『古事記』上巻(黄泉比良坂・千引の石)
神道(祖霊の観念)
盆や彼岸に死者が帰ってくるものとして迎えられ、送られる。教義として定められたものではなく、年ごとの行事の形で続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年

この二つの欄は、同じ神道のなかで正面から食い違って見えます。古典神話は大岩で行き来が絶たれた由来を語り、祖霊の観念では盆に死者が帰ってきます。この食い違いをどう見るかで、学説が分かれています。黄泉と、祖霊がとどまる山とをひと続きに見る説(谷口雅博・國學院大學)と、記紀の神話と古代の民間の信仰は別の位相にあるとする説(酒井陽『日本文化論叢』第2号 2001年)があります。どちらかに寄せずに、両方を並べたまま置きます。

西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
遺された者が定められた祈りを唱える。その言葉は神を讃えるもので、埋葬のとき以外は死者に触れない。務めは遺された側にある。出典:カディッシュ/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
ユダヤ教
(カバラー)
魂が繰り返し生まれ変わるという枠組みのなかで、生者の行いが先立った魂の行方に関わりうるとされ、祈りに意味が置かれる。出典:『ゾーハル』サバ・デ・ミシュパティーム(II 94b〜114a)
キリスト教
(カトリック)
生者と死者は一つの交わりのうちにあるとされ、死者のための祈りが営まれる。聖なる人々への取り次ぎを願うことも認められる。出典:聖徒の交わり(旧訳・諸聖人の通功)/第二マカバイ記 12:45
キリスト教
(正教)
死者のための祈りが定められた形で営まれる。生者と死者を分けず、一つの共同体として捉える見方が保たれている。出典:パニヒダ(ギリシャではパラスタス)/末尾に「永遠の記憶」
キリスト教
(プロテスタント)
死者のための祈りや取り次ぎを退ける。人と神のあいだに仲介を置かないという原則が、死者との関わりにも及んでいる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年/新約聖書
イスラム教
(スンナ派)
遺された者が死者のために祈願することは認められる。一方で、死者を呼び出そうとする行いは強く退けられる。出典:クルアーン/サヒーフ・ムスリム 1631(遺言の書)
イスラム教
(シーア派)
祈願に加えて、預言者の家系に連なる者への取り次ぎの願いが重んじられ、その墓所への参詣も広く行われている。出典:サドゥーク『イーティカーダート』第21章/イブン・クーラワイフ『カーミル・アッ・ズィヤーラート』(10世紀)
イスラム教
(スーフィズム)
聖者とされる人物の墓所へ参詣し、そこで祈ることに意味が置かれる。同じイスラムのなかで、これを退ける側と長く対立してきた。出典:聖者廟参詣(ズィヤーラ)
ギリシアに始まる哲学
プラトン
魂は不滅とされるが、遺された者との往き来は論じられない。関心は魂の行方そのものにあり、交わりの手立ては語られない。出典:プラトン『パイドン』(岩波文庫・岩田靖夫訳)
エピクロス
死者はもはや存在しないので、関わる相手が残らない。恐れる対象も、語りかける対象も無いという立場になる。出典:エピクロス『メノイケウス宛書簡』124〜125節
ストア派
死は全体へ還ることであり、個として残る相手がいない。遺された者に説かれるのは、受け入れることのほうである。出典:エピクテトス『語録』3巻24章27節・87〜88節(権内にないもの)/『自省録』
デカルト
精神と身体を分けたが、死者との関わりは論じない。関心は、確かに知りうることの範囲を定めることに置かれている。出典:デカルト『省察』1641年
スピノザ
精神に永遠なる部分を認めるが、それは個人の記憶が続くことではない。死者と語り合うという形にはならない。出典:スピノザ『エチカ』第五部 定理23
カント
知りうることの外にあるとして退ける。死者との交信を語る当時の言説を、一冊を割いて批判的に検討している。出典:カント『視霊者の夢』1766年(正式名『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』)
ハイデガー
他者の死は経験できるが、それは自分の死の代わりにならないと論じる。交わりではなく、自分の死へ向き直ることを問う。出典:ハイデガー『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)
実存主義
(サルトル・カミュ)
死者は遺された者の記憶と行いのうちにのみ残る。向こう側との往き来は想定されず、意味は生きる側が引き受ける。出典:サルトル『存在と無』1943年/カミュ『シーシュポスの神話』1942年
心理学
ユング
死者との対話を、外の相手との交信としてではなく、心の深いところで起きる出来事として記述した。真偽の判定は避けている。出典:ユング『死者への七つの語らい』1916年(私家版・『赤の書』草稿の末尾)
フランクル
過ぎ去った出来事は失われず、過去のうちに保たれるとした。死者との関係も、その保たれたもののうちに置かれる。出典:フランクル『意味への意志』(山田邦男監訳・春秋社2002年)Ⅱ 時間と責任
科学
神経科学
死者と交流した体験は、生者の脳の活動として観察の対象になる。体験があることと、相手がいることは分けて扱われる。出典:カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年(原著第6版2021年)
進化生物学
この問いを立てない。ただし、死者を悼み葬る行いが人に広く見られることは、観察できる事実として記述される。出典:フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年
宇宙論
この問いを扱う枠組みを持たない。物質とエネルギーの振る舞いを記述する理論で、個人の存続を語る語彙が無い。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
量子力学
この問いに答えを持たない。もつれと呼ばれる現象が引き合いに出されることがあるが、粒子の相関を指す語であり、人の関係を指す語ではない。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
現代の言説
神智学
死者は精妙な層に移っており、条件が整えば交わりうると説いた。十九世紀後半の、交霊をめぐる関心のなかで体系化された。出典:神智学協会(1875年創設)/H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年
現代スピリチュアル
死者は近くにいて見守っており、合図や偶然を通じて知らせてくるとされる。教典による裏づけを持たず、語り手ごとに内容が異なる。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
臨死体験の研究
生還者の報告に、亡くなった家族と会ったという語りが一定の割合で含まれることが記録されている。解釈は分かれる。出典:ムーディ『Life After Life』1975/AWARE研究 2008〜2014
信仰を持たない立場
唯物論・無神論
死とともに人は終わるので、つながる相手が残らない。遺された者の側に残る記憶と影響が、すべてだとされる。出典:ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)
02

どこで割れているか

一つめ 働きかけが届くか、届かないか

祈りや供養が死者に届くとする立場と、届かないとする立場に、まず分かれます。届くとする側には、儒教・カトリック・正教・チベット・浄土教・上座部が並びます。届かないとする側には、ジャイナ教・プロテスタント・シク教・エピクロスが並びます。出自がまったく違う立場が、同じ側に来ます。

二つめ 届かないとする理由が、二通りある

届かないという答えは、一つに見えて中身が違います。ジャイナ教は解脱した魂が世界に関わらないから、プロテスタントは人と神のあいだに仲介を置かないから、エピクロスと唯物論は相手がもう存在しないからです。同じ結論に、三つの別の道筋があります。

三つめ 行いは残る、教義は無い

神道の祖霊の観念のように、教義として定められていないのに、行事の形で受け継がれてきたものがあります。この問いでは、教義の有無と、実際に営まれている行いが一致しません。他の問いより、ここが目立ちます。

03

出典の確認状況

この節は、読者に見える形で置いています。どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。「照会済」は原典まで確認が取れたもの、「未確認」はこれから当たるものです。

出典使った箇所状況
シュラーッダ/『マヌ法典』(前2世紀〜後2世紀)01節照会済
『餓鬼事経』ティロークッダ経(功徳の回向)01節照会済
『ミリンダ王の問い』(回向が届く境涯の限定)01節照会済
曇鸞『往生論註』/親鸞『教行信証』(往相・還相)01節照会済
『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)01節照会済
『グル・グラント・サーヒブ』01節照会済
『論語』八佾篇 第12章(祭如在)01節章まで特定
『荘子』至楽篇01節照会済
『古事記』上巻(黄泉比良坂・千引の石)01節照会済
カディッシュ(埋葬時以外は死者に触れない)01節照会済
カバラー文献(ギルグル)01節照会済
聖徒の交わり/第二マカバイ記 12:4501節節まで特定
パニヒダ(ギリシャではパラスタス)/「永遠の記憶」01節照会済
聖者廟参詣(ズィヤーラ)01節照会済
カント『視霊者の夢』1766年01節年まで特定
ユング『死者への七つの語らい』1916年01節年まで特定
プラトン『パイドン』01節照会済
エピクロス『メノイケウス宛書簡』124〜125節01節節まで特定
スピノザ『エチカ』第五部 定理2301節定理まで特定
ハイデガー『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)01節節まで特定
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』01節照会済
世親『唯識三十頌』/護法釈『成唯識論』01節照会済
『阿毘達磨倶舎論』/破我品01節照会済
道元『正法眼蔵』生死巻01節照会済
神智学協会(1875年創設)/ブラヴァツキーの著作01節照会済
ムーディ『Life After Life』1975/AWARE研究01節照会済
『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」『印度學佛教學研究』35巻2号 1987年01節論文は全文を確認・軌範は目次が非公開のため間接確認
柳田国男『先祖の話』1946年(盆・彼岸)01節照会済
カルヴァン『キリスト教綱要』1536年/新約聖書01節照会済
クルアーン/サヒーフ・ムスリム 1631(遺言の書)01節照会済
イブン・クーラワイフ『カーミル・アッ・ズィヤーラート』(10世紀)01節照会済
デカルト『省察』1641年01節照会済
サルトル『存在と無』1943年/カミュ『シーシュポスの神話』1942年01節照会済
フランクル『意味への意志』(山田邦男監訳・春秋社2002年)Ⅱ 時間と責任01節章節まで特定
ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』10章5節(解脱した魂はローカの頂へ上昇する)01節章節まで特定
『バガヴァッド・ギーター』8章5節01節原文を確認
カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年(原著第6版2021年)01節掲載誌・版元を確認
フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年01節掲載誌・版元を確認
プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年01節掲載誌・版元を確認
サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節01節掲載誌・版元を確認
ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)01節章まで特定
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」(刊行年と版元をつけた一覧)01節系譜のページに集約
届く境涯の限定は『ミリンダ王の問い』01節章節を特定
『ゾーハル』サバ・デ・ミシュパティーム(II 94b〜114a)01節章節を特定
エピクテトス『語録』3巻24章27節・87〜88節(権内にないもの)01節章節を特定
『自省録』01節章節を特定
シュラーッダ(祖先供養)01節章節を特定
『倶舎論』破我品に引かれた説01節章節を特定
世親『唯識三十頌』(玄奘訳)01節章節を特定
曇鸞『往生論註』(往相・還相)01節章節を特定
石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年01節章節を特定
ミシュナ(200年頃)01節章節を特定
バビロニア・タルムード01節章節を特定
聖徒の交わり(旧訳・諸聖人の通功)01節章節を特定
末尾に「永遠の記憶」01節章節を特定
サドゥーク『イーティカーダート』第21章01節章節を特定
H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年01節章節を特定
AWARE研究 2008〜201401節章節を特定