軸 7 / 生き方をめぐる問い

善悪はどこで決まるのか

何が善く、何が悪いのか。それを決めているのは神の命令なのか、人の理性なのか、行いの結果なのか、それとも心の向きなのか。基準の置き場所が、立場によってまるで違います。同じ体裁で並べます。判定はしません。

01

四十二の立場が、それぞれ何と答えているか

並びは成立の古い順で、順位ではありません。一つの答えは同じ長さにそろえてあります。資料の多い立場ほど長くはなりません。

インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(ヴェーダーンタ)
果報を求めずに務めを果たすことが説かれる。最も高い段階では、行いの主体という見方そのものが解かれていく。出典:『バガヴァッド・ギーター』2章47節/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
善悪を神の定めとしては立てない。三つの性質がどう組み合わさるかによって、行いの質が決まると説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
ヒンドゥー教
(信愛の道)
誰に捧げたかが問われる。同じ行いでも、神に向けて捧げられたかどうかによって意味が変わるとされている。出典:『バガヴァッド・ギーター』9章26節
ジャイナ教
傷つけないこと・偽らないこと・盗まないことなど、五つの誓いとして具体的に定められ、守る度合いで分けられる。出典:ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』7章1節
仏教・上座部
意図こそを業と呼ぶと説かれる。同じ行いでも、どういう心で行われたかによって善悪が分かれることになる。出典:増支部6.63(意図こそが業)/増支部10.176(十の善業道)
仏教・説一切有部
同じ枠組みを取りながら、行いを善・不善・どちらでもないものの三つに分け、細かく分類して整理している。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』業品(本頌8〜9)
仏教・犢子部
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
仏教・唯識
行いの結果が心の深い層に残り、次の現れを生むと説かれる。善悪は、その積み重なりの側から説明される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
仏教・浄土教
自力では善をなしきれない者として自分を見る。そこから、はからいを離れて委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
仏教・禅(道元)
悪をなすなという禁止としては読まない。修行が現れているとき、悪はおのずとなされていないと説き替える。出典:道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)
仏教・チベット
段階を追った実践の道が細かく組まれている。行いの善悪は、その道のどこに位置するかによって示される。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
シク教
正直に働き、分かち合い、神の名を念じることが道とされる。暮らしのなかで果たすことに重心が置かれる。出典:『グル・グラント・サーヒブ』1245ページ(三つの務め)
中国に始まる系統
儒教
仁とは人を愛することだとされる。自分がされたくないことを人にしない、という一語が全体を貫くと語られる。出典:『論語』顔淵篇 第22章/衛霊公篇 第24章
道教(荘子)
大いなる道が廃れてから仁義が現れたとされる。善悪を掲げること自体が、崩れの後に来たものと見られる。出典:『老子』第十八章・第三十八章
日本
神道(古典神話)
汚れを祓い、清らかであることが重んじられる。善悪という語よりも、清と濁の対比によって語られてきた。出典:『延喜式』巻第八 祝詞(大祓詞)
神道(祖霊の観念)
教義として善悪を定めない。家や土地とのつながりを保つ営みが、行いの善し悪しを支える形で続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
戒律は六百十三と数えられてきた。ヒレルは、自分に忌まわしいことを人にするなの一語に全体を要約している。出典:バビロニア・タルムード マッコート篇23b/シャバット篇31a
ユダヤ教(カバラー)
同じ戒律を受け取りながら、一つ一つの行いが上の世界に働きかけるという枠組みのなかに置き直している。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
キリスト教
(カトリック)
神を愛することと隣人を愛することが、最も大いなる二つの戒めとされる。律法全体がここにかかると語られる。出典:マタイ22章37〜40節/レビ記19章18節
キリスト教(正教)
同じ二つの戒めを受け取る。加えて、善悪を守ることが神へ近づいていく過程として受けとめられている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
キリスト教
(プロテスタント)
行いによって義とされるのではないとされる。そのうえで、置かれた場所で務めを果たすことが召しとされる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
イスラム教(スンナ派)
善悪は神が命じることによって決まるとする見方が、後に主流となった。理性が独自に定めるのではないとされる。出典:アシュアリー派の立場(アシュアリー没935年)
イスラム教(シーア派)
理性によっても善悪は知りうるとする側に立つ。神は理に反することを命じないという枠組みが置かれている。出典:ムウタズィラ派の立場(アブドゥル・ジャッバール没1025年)
イスラム教
(スーフィズム)
外に定められた規範を守りながら、内側の心の清めを重ねていく道が説かれる。行いの奥が問われることになる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
ギリシアに始まる哲学
プラトン
神々に愛されるから善いのか、善いから愛されるのかと問い返した。神の命令の手前にある基準が問われる。出典:プラトン『エウテュプロン』10a
エピクロス
苦しみが無いことを基準に置く。ただし放埒を勧めるのではなく、思慮によって欲を整えることが説かれている。出典:エピクロス『メノイケウス宛書簡』
ストア派
善は徳のみだとされる。生命も健康も富も、善でも悪でもない中間のものとして分類されることになる。出典:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻101〜103節
デカルト
善悪そのものを主題としない。意志を正しく用いることに満足があると述べるにとどめ、規範を組み立てていない。出典:デカルト『情念論』1649年 第148項
スピノザ
善悪は物そのものの性質ではないとされる。人にとって役立つか否かの関係を指す語として捉え直されている。出典:スピノザ『エチカ』第四部 序言
カント
その基準が誰にでも当てはまる法則になりうるかを問えとした。結果ではなく、その形式のほうが基準になる。出典:カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:421)
ハイデガー
規範を立てることを主題としない。本来の自分として在るかどうかのほうへ、問いの向きが移し替えられている。出典:ハイデガー『存在と時間』1927年
実存主義
(サルトル・カミュ)
あらかじめの基準は無いとされる。だからこそ選ぶことに責任が伴い、選んだ側がその重さを引き受けるとされる。出典:サルトル『実存主義とは何か』1946年
心理学
ユング
善悪を判定しない。ただし人が影として遠ざけた部分をどう引き受けるかを、心の課題として重く見ている。出典:ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店)
フランクル
規範を定めない。状況ごとに問われていることへどう応えるかによって、なすべきことが決まるとされている。出典:フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)
科学
神経科学
道徳の判断にともなう脳の働きは観察される。ただし何が善いかという問いそのものは、対象に入っていない。出典:グリーンら『サイエンス』293巻 2001年(道徳判断のfMRI研究)
進化生物学
助け合う行いが広まる条件は説明される。ただし善いから広まったとは述べず、過程として記述するにとどまる。出典:トリヴァース「互恵的利他行動の進化」1971年(『生物学季刊評論』46巻1号)
宇宙論
この問いを扱う枠組みを持たない。物質とエネルギーを記述する理論に、善悪を語るための語彙は無い。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
量子力学
この問いに答えを持たない。粒子の振る舞いを記述する理論であり、善悪を扱う枠組みは含まれていない。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
現代の言説
神智学
行いの結果が層をまたいで返るとされた。善悪は、その仕組みのなかに位置づけられる形で説明されている。出典:H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年
現代スピリチュアル
善悪を固定して立てない語り方が多い。学びのための経験として受け取る形で語られ、語り手ごとに異なる。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
臨死体験の研究
報告のなかに人生の振り返りが語られることは記録する。ただしそれが何を示すかの判断には踏み込まない。出典:AWARE研究 2008〜2014
信仰を持たない立場
唯物論・無神論
世界の側に基準があるのではないとされる。善悪は人が決めたものであり、決めた側が引き受けるとされている。出典:ラッセル「自由人の信仰」(『神秘主義と論理』江森巳之助訳・みすず書房)

この表にヒュームは入っていません。「である」から「べきである」は導けないと述べた人で(『人性論』第三巻第一部第一節)、この問いに深く関わりますが、四十二の名簿は問いをまたいで共通に使っているため、この問いのためだけに足すことをしていません。

02

どこで割れているか

一つめ 神が命じるから善いのか、善いから神が命じるのか

この問いは二千四百年前のギリシアで立てられ、その千三百年後にイスラムの内部でもう一度立てられました。プラトンは「敬虔だから神々に愛されるのか、神々に愛されるから敬虔なのか」と問い返します。イスラムでは、アシュアリー派が神の命令によって決まるとし、ムウタズィラ派が理性でも知りうるとして、正面から対立しました。同じ形の問いが、互いを知らないまま別々の場所で立てられています。

二つめ 行いで決まるのか、心の向きで決まるのか

上座部は意図こそを業と呼ぶと定めます。同じ行いでも、どういう心でなされたかによって分かれるという立場です。カントも、結果ではなく基準の形式のほうを問いました。一方でジャイナ教は五つの誓いを具体的に定め、ユダヤ教は戒律を六百十三と数えます。外に定めるか、内を問うかで、規範の作り方そのものが変わります。

三つめ 善悪を掲げること自体を問い直す立場

『老子』は大いなる道が廃れてから仁義が現れたと述べます。善悪を掲げなければならないこと自体が、すでに崩れの後だという見方です。道元は「悪をなすな」を禁止の命令としては読まず、修行が現れているときに悪はおのずとなされていない、と読み替えます。規範を否定するのではなく、規範が要る状態のほうを問う形です。

03

原典に降りる

では、この問いを考えてみよ。──敬虔なるものは、敬虔であるがゆえに神々に愛されるのか。
それとも、神々に愛されるがゆえに敬虔なのか。

プラトン『エウテュプロン』10a

神を信じる側にとっても、信じない側にとっても効いてくる問いです。前者を取れば、神の命令より先に基準があることになります。後者を取れば、神が別のことを命じればそれが善になります。この二千四百年前の問いが、いまも同じ形で残っています。

大いなる道が廃れて、仁義が現れた。知恵が現れて、大きな偽りが現れた。
親族が和やかでなくなって、孝と慈が現れた。国家が乱れて、忠臣が現れた。

『老子』第十八章

仁義そのものを悪いとは言っていません。それが掲げられねばならない事態のほうを見ています。徳目が並ぶことを、健やかさの証しではなく、失われたことの証しとして読む形です。

比丘たちよ、意図こそを、わたしは業と呼ぶ。
意図してのち、身により、語により、意によって、業をなすのである。

増支部6.63 ニッベーディカ経

行いそのものではなく、その手前にある心の向きが基準に置かれます。同じことをしても、業としては別のものになるという立て方です。

04

掘って分かったこと

同じ問いが、離れた場所で二度立てられています

プラトンの問い返し(前四世紀・アテナイ)と、アシュアリー派とムウタズィラ派の対立(十世紀・バグダードほか)は、互いを踏まえて起きたものではありません。それでも問いの形が一致します。神を認める側の内部から、神の命令と善悪の関係が問われた——という点で同じです。この一致は、並べてみるまで見えませんでした。

イスラムの内部対立を、宗派の枠に重ねていません

アシュアリー派とムウタズィラ派の対立は、スンナ派とシーア派の分かれ方とそのまま重なるものではありません。01節では、この問いで実際に分かれている二つの立場を示すために、それぞれの欄に当てています。ただし歴史的な広がりは一致しないので、ここに断っておきます。

05

出典の確認状況

この節は、読者に見える形で置いています。どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。

出典使った箇所状況
『バガヴァッド・ギーター』2章47節01節照会済
シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論01節照会済
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)01節照会済
『バガヴァッド・ギーター』9章26節01節照会済
ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』7章1節01節照会済
増支部6.63(意図こそが業)01節照会済
増支部10.176(十の善業道)01節照会済
世親『阿毘達磨倶舎論』業品(本頌8〜9)01節照会済
『倶舎論』破我品に引かれた説01節照会済
世親『唯識三十頌』(玄奘訳)01節照会済
護法釈『成唯識論』01節照会済
親鸞『教行信証』01節照会済
唯円編『歎異抄』第三条01節照会済
道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)01節照会済
シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)01節照会済
『グル・グラント・サーヒブ』1245ページ(三つの務め)01節照会済
『論語』顔淵篇 第22章01節照会済
衛霊公篇 第24章01節照会済
『老子』第十八章・第三十八章01節照会済
『延喜式』巻第八 祝詞(大祓詞)01節照会済
柳田国男『先祖の話』1946年01節照会済
バビロニア・タルムード マッコート篇23b01節照会済
シャバット篇31a01節照会済
『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)01節照会済
マタイ22章37〜40節01節照会済
レビ記19章18節01節照会済
グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)01節照会済
カルヴァン『キリスト教綱要』1536年01節照会済
アシュアリー派の立場(アシュアリー没935年)01節照会済
ムウタズィラ派の立場(アブドゥル・ジャッバール没1025年)01節照会済
ガザーリー『宗教諸学の再興』01節照会済
プラトン『エウテュプロン』10a01節照会済
エピクロス『メノイケウス宛書簡』01節照会済
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻101〜103節01節照会済
デカルト『情念論』1649年 第148項01節照会済
スピノザ『エチカ』第四部 序言01節照会済
カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:421)01節照会済
ハイデガー『存在と時間』1927年01節照会済
サルトル『実存主義とは何か』1946年01節照会済
ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店)01節照会済
フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)01節照会済
グリーンら『サイエンス』293巻 2001年(道徳判断のfMRI研究)01節照会済
トリヴァース「互恵的利他行動の進化」1971年(『生物学季刊評論』46巻1号)01節照会済
プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年01節照会済
サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節01節照会済
H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年01節照会済
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」01節照会済
AWARE研究 2008〜201401節照会済
ラッセル「自由人の信仰」(『神秘主義と論理』江森巳之助訳・みすず書房)01節照会済
ヒューム『人性論』第三巻第一部第一節01節の注該当節を確認
SEP「Arabic and Islamic Philosophy of Religion」7節02・04節両派の記述を確認