何が善く、何が悪いのか。それを決めているのは神の命令なのか、人の理性なのか、行いの結果なのか、それとも心の向きなのか。基準の置き場所が、立場によってまるで違います。同じ体裁で並べます。判定はしません。
並びは成立の古い順で、順位ではありません。一つの答えは同じ長さにそろえてあります。資料の多い立場ほど長くはなりません。
この表にヒュームは入っていません。「である」から「べきである」は導けないと述べた人で(『人性論』第三巻第一部第一節)、この問いに深く関わりますが、四十二の名簿は問いをまたいで共通に使っているため、この問いのためだけに足すことをしていません。
この問いは二千四百年前のギリシアで立てられ、その千三百年後にイスラムの内部でもう一度立てられました。プラトンは「敬虔だから神々に愛されるのか、神々に愛されるから敬虔なのか」と問い返します。イスラムでは、アシュアリー派が神の命令によって決まるとし、ムウタズィラ派が理性でも知りうるとして、正面から対立しました。同じ形の問いが、互いを知らないまま別々の場所で立てられています。
上座部は意図こそを業と呼ぶと定めます。同じ行いでも、どういう心でなされたかによって分かれるという立場です。カントも、結果ではなく基準の形式のほうを問いました。一方でジャイナ教は五つの誓いを具体的に定め、ユダヤ教は戒律を六百十三と数えます。外に定めるか、内を問うかで、規範の作り方そのものが変わります。
『老子』は大いなる道が廃れてから仁義が現れたと述べます。善悪を掲げなければならないこと自体が、すでに崩れの後だという見方です。道元は「悪をなすな」を禁止の命令としては読まず、修行が現れているときに悪はおのずとなされていない、と読み替えます。規範を否定するのではなく、規範が要る状態のほうを問う形です。
では、この問いを考えてみよ。──敬虔なるものは、敬虔であるがゆえに神々に愛されるのか。
それとも、神々に愛されるがゆえに敬虔なのか。
神を信じる側にとっても、信じない側にとっても効いてくる問いです。前者を取れば、神の命令より先に基準があることになります。後者を取れば、神が別のことを命じればそれが善になります。この二千四百年前の問いが、いまも同じ形で残っています。
大いなる道が廃れて、仁義が現れた。知恵が現れて、大きな偽りが現れた。
親族が和やかでなくなって、孝と慈が現れた。国家が乱れて、忠臣が現れた。
仁義そのものを悪いとは言っていません。それが掲げられねばならない事態のほうを見ています。徳目が並ぶことを、健やかさの証しではなく、失われたことの証しとして読む形です。
比丘たちよ、意図こそを、わたしは業と呼ぶ。
意図してのち、身により、語により、意によって、業をなすのである。
行いそのものではなく、その手前にある心の向きが基準に置かれます。同じことをしても、業としては別のものになるという立て方です。
プラトンの問い返し(前四世紀・アテナイ)と、アシュアリー派とムウタズィラ派の対立(十世紀・バグダードほか)は、互いを踏まえて起きたものではありません。それでも問いの形が一致します。神を認める側の内部から、神の命令と善悪の関係が問われた——という点で同じです。この一致は、並べてみるまで見えませんでした。
アシュアリー派とムウタズィラ派の対立は、スンナ派とシーア派の分かれ方とそのまま重なるものではありません。01節では、この問いで実際に分かれている二つの立場を示すために、それぞれの欄に当てています。ただし歴史的な広がりは一致しないので、ここに断っておきます。
この節は、読者に見える形で置いています。どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。
| 出典 | 使った箇所 | 状況 |
|---|---|---|
| 『バガヴァッド・ギーター』2章47節 | 01節 | 照会済 |
| シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論 | 01節 | 照会済 |
| イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀) | 01節 | 照会済 |
| 『バガヴァッド・ギーター』9章26節 | 01節 | 照会済 |
| ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』7章1節 | 01節 | 照会済 |
| 増支部6.63(意図こそが業) | 01節 | 照会済 |
| 増支部10.176(十の善業道) | 01節 | 照会済 |
| 世親『阿毘達磨倶舎論』業品(本頌8〜9) | 01節 | 照会済 |
| 『倶舎論』破我品に引かれた説 | 01節 | 照会済 |
| 世親『唯識三十頌』(玄奘訳) | 01節 | 照会済 |
| 護法釈『成唯識論』 | 01節 | 照会済 |
| 親鸞『教行信証』 | 01節 | 照会済 |
| 唯円編『歎異抄』第三条 | 01節 | 照会済 |
| 道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年) | 01節 | 照会済 |
| シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃) | 01節 | 照会済 |
| 『グル・グラント・サーヒブ』1245ページ(三つの務め) | 01節 | 照会済 |
| 『論語』顔淵篇 第22章 | 01節 | 照会済 |
| 衛霊公篇 第24章 | 01節 | 照会済 |
| 『老子』第十八章・第三十八章 | 01節 | 照会済 |
| 『延喜式』巻第八 祝詞(大祓詞) | 01節 | 照会済 |
| 柳田国男『先祖の話』1946年 | 01節 | 照会済 |
| バビロニア・タルムード マッコート篇23b | 01節 | 照会済 |
| シャバット篇31a | 01節 | 照会済 |
| 『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年) | 01節 | 照会済 |
| マタイ22章37〜40節 | 01節 | 照会済 |
| レビ記19章18節 | 01節 | 照会済 |
| グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別) | 01節 | 照会済 |
| カルヴァン『キリスト教綱要』1536年 | 01節 | 照会済 |
| アシュアリー派の立場(アシュアリー没935年) | 01節 | 照会済 |
| ムウタズィラ派の立場(アブドゥル・ジャッバール没1025年) | 01節 | 照会済 |
| ガザーリー『宗教諸学の再興』 | 01節 | 照会済 |
| プラトン『エウテュプロン』10a | 01節 | 照会済 |
| エピクロス『メノイケウス宛書簡』 | 01節 | 照会済 |
| ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻101〜103節 | 01節 | 照会済 |
| デカルト『情念論』1649年 第148項 | 01節 | 照会済 |
| スピノザ『エチカ』第四部 序言 | 01節 | 照会済 |
| カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:421) | 01節 | 照会済 |
| ハイデガー『存在と時間』1927年 | 01節 | 照会済 |
| サルトル『実存主義とは何か』1946年 | 01節 | 照会済 |
| ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店) | 01節 | 照会済 |
| フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房) | 01節 | 照会済 |
| グリーンら『サイエンス』293巻 2001年(道徳判断のfMRI研究) | 01節 | 照会済 |
| トリヴァース「互恵的利他行動の進化」1971年(『生物学季刊評論』46巻1号) | 01節 | 照会済 |
| プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年 | 01節 | 照会済 |
| サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節 | 01節 | 照会済 |
| H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年 | 01節 | 照会済 |
| 系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」 | 01節 | 照会済 |
| AWARE研究 2008〜2014 | 01節 | 照会済 |
| ラッセル「自由人の信仰」(『神秘主義と論理』江森巳之助訳・みすず書房) | 01節 | 照会済 |
| ヒューム『人性論』第三巻第一部第一節 | 01節の注 | 該当節を確認 |
| SEP「Arabic and Islamic Philosophy of Religion」7節 | 02・04節 | 両派の記述を確認 |