軸 2 / 死をめぐる問い

天国・地獄・浄土はどこにあるのか

行き先を、世界の宗教・哲学・科学・現代の言説がどこに置いてきたかを並べます。場所として描くのか、状態として語るのか、そもそも置かないのか。正しい・正しくないの判定はしません。並び順は成立の古い順で、意味はありません。

01

答えを並べる

同じ名前の宗教でも、この問いでは答えが割れます。割れているところまで降りて書きます。割れていないところは割りません。一つの答えは六十字前後にそろえてあり、資料の多い立場ほど長くなることがないようにしています。

インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(ヴェーダーンタ)
天界も地獄も、行いに応じて赴く一時の滞在先とされる。解脱はそのどこかではなく、往き来そのものの外に置かれる。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
赴く先の地誌を持たない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。関心は解放の仕組みにある。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
ヒンドゥー教
(信愛の道)
神の世界が語られ、そこに至ることが目指される。輪廻のなかの一区画としてではなく、神のもとという関係の側に置かれる。出典:『バガヴァッド・ギーター』/『バーガヴァタ・プラーナ』第三巻15章
ジャイナ教
宇宙は人の形になぞらえて描かれる。下方に地獄、中ほどに人の世界、上方に天界、その頂に解脱した魂の場所が置かれる。出典:ジャイナ宇宙論(ロカ・シッダシラー)
仏教・上座部
生まれ変わる先が三十一に数えられ、地獄も天界もそのうちに入る。いずれも一時のもので、涅槃はその三十一の外にある。出典:『アビダンマッタ・サンガハ』第5章(欲界11・色界16・無色界4)
仏教・説一切有部
世界の構造が細かく体系化され、須弥山を中心とした地誌のなかに、天界も地獄も高さの順で位置づけられる。数と距離まで示される。出典:『阿毘達磨倶舎論』世間品
仏教・犢子部とくしぶ
世界の地誌については、部派に共通する枠組みをそのまま用い、そこを離れる独自の主張を残していない。関心は輪廻の主体の側にある。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
仏教・唯識
外の世界そのものが心の現れとされるため、地獄も天界も、場所としてではなく心のありようとして説明し直されることになる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
仏教・浄土教
西方に十万億の仏土を過ぎたところにあると経に説かれる。ただし遠さは隔たりを意味せず、念仏によって結ばれるとされる。出典:『阿弥陀経』「從是西方過十万億佛土」
仏教・禅(道元)
場所として問うことを退ける。地獄も浄土も、いまのありようを離れて別に在るものとしては語らず、問いの立て方のほうを戻す。出典:道元『正法眼蔵』
仏教・チベット
六つの境涯が輪として描かれ、地獄も天界もそのうちに置かれる。同時に心が作り出す像としても説かれ、二重に読まれてきた。出典:タイザー『Reinventing the Wheel』2006年/『バルド・トドゥル』
シク教
天国と地獄を場所として置かない。神から離れている状態と、神と結ばれている状態として語られ、いま現に問われるものとされる。出典:『グル・グラント・サーヒブ』

「三十一の境涯」という数え上げは、経典にはありません。パーリの経典が説くのは、五つの行き先(地獄・畜生・餓鬼・人・天)や、七つの識の住処と二つの処、九つの有情の居どころといった枠です。三十一という形にまとめたのは後代のアビダンマで、十一〜十二世紀の『アビダンマッタ・サンガハ』が標準の典拠になります。しかもその本文にも「三十一」という数字は書かれておらず、四つの区分を足すと三十一になる、という形です。ブッダゴーサ『清浄道論』も、この分類を用いていません。上の欄は、この体系にもとづいて書いています。

中国に始まる系統
儒教
死後の場所を説かない。祖先を祀る場は現世の側に置かれ、そこに向かって礼が営まれる。行き先ではなく、祀る態度のほうが問われる。出典:『論語』先進篇・八佾篇
道教(荘子)
気が集まり散じるだけなので、赴く先が別に立たない。のちの時代の道教には地獄が現れるが、荘子はそれを語っていない。出典:『荘子』至楽篇
日本
神道(古典神話)
黄泉が地の下として語られ、海の彼方には常世が置かれる。いずれも賞罰の場としては描かれず、ただ隔たった場所として現れる。出典:『古事記』上巻(黄泉・常世)
神道(祖霊の観念)
死者は遠くへ行くのではなく、山や里の近くにとどまり、時期が来ると帰ってくるものとして受けとめられてきた。教義ではない。出典:柳田国男『先祖の話』1946年(山中他界)

上の欄で黄泉を「地の下」と書きましたが、『古事記』の本文に地下だと明示した記述はないという指摘があります。谷口雅博(國學院大學)は、死者が山に葬られたことなどから黄泉は山中にあったと考えられるとし、この見方では黄泉と、下の欄の祖霊がとどまる山とはひと続きになります。いっぽう、記紀の黄泉と古代の民間の信仰は別の位相にあるとする説もあります(酒井陽『日本文化論叢』第2号 2001年)。二つの欄を分けて置いていますが、分かれているのか続いているのかは、まだ定まっていません。どちらで読むかは、読む側にゆだねます。

西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
古い層では、善人も悪人も等しく降りる陰の場所が語られる。賞罰は結びつけられず、来るべき世は後の時代に置かれる。出典:シェオル(ヘブライ語聖書に65回)/来るべき世
ユダヤ教
(カバラー)
場所というより、魂が置かれる段階として描かれる。上と下は位置ではなく、神への近さの度合いを指す言葉になっている。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
キリスト教
(カトリック)
天国と地獄に加えて、清めを受ける状態が置かれる。近年の教えでは、場所というより神との関係のありようとして説明される。出典:『カトリック教会のカテキズム』1023〜1037
キリスト教
(正教)
地獄を、死後の場所に限らず、神を愛せないことの苦しみとして語る見方が保たれている。二つの場所を分けて置かない。出典:正教における地獄の理解
キリスト教
(プロテスタント)
天国と地獄を認め、清めの状態は置かない。場所の描写よりも、神との関係があるかどうかのほうに重心が置かれている。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
イスラム教
(スンナ派)
楽園と業火が、それぞれ段階を持つ場所として具体的に描かれる。庭・川・木といった描写が、繰り返し細かく置かれている。出典:クルアーン 55章46節以下・56章27〜56節
イスラム教
(シーア派)
同じ枠組みを共有する。加えて、預言者の家系に連なる者の取り次ぎによって行き先が変わりうることが語られる点が異なる。出典:クルアーン/サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)
イスラム教
(スーフィズム)
楽園を報いとして求めること自体を低く見る流れがある。目指されるのは場所ではなく、神そのものとの近さのほうである。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
ギリシアに始まる哲学
プラトン
死後の裁きと行き先を語る物語が置かれる。ただし論証としてではなく物語として語ることが、本文のなかで断られている。出典:プラトン『国家』第十巻614a〜621d(エルの物語)/『パイドン』
エピクロス
地獄の物語は人を恐れさせるための作り話であり、恐れる理由はないとされる。赴く場所は存在せず、残るのは恐れだけである。出典:エピクロス『メノイケウス宛書簡』124〜125節
ストア派
死後の場所を説かない。人は宇宙の全体へ還るのであって、どこかへ赴くのではないとされる。行き先を問うこと自体が退けられる。出典:エピクテトス『語録』3巻13章14〜15節(ハデスもアケロンも無い)/『自省録』
デカルト
死後の場所を論じない。関心は、確かに知りうることの範囲を定めることに置かれ、その外にあるものは扱わない立場をとる。出典:デカルト『省察』1641年
スピノザ
賞罰の場としての天国と地獄を退ける。永遠は時間の先にあるのではなく、物事をどう見るかのうちにあるとされている。出典:スピノザ『エチカ』第五部
カント
知りうることの外にあるとして、場所としての描写を退ける。来世は、道徳が成り立つための要請として置かれるにとどまる。出典:カント『実践理性批判』/『視霊者の夢』1766年
ハイデガー
死後の行き先を論じない。どこへ赴くかという問いを、自分の死へ向き直ることのほうへ移し替えている。場所は主題にならない。出典:ハイデガー『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)
実存主義
(サルトル・カミュ)
赴く場所を想定しない。カミュは、報いを当てにせずにそれでも生きることのほうを問いの中心に置き、行き先を問わなかった。出典:カミュ『シーシュポスの神話』1942年
心理学
ユング
天国と地獄の像を、心の深いところから繰り返し現れる形として扱った。実在するかどうかの判定には踏み込んでいない。出典:ユング「チベットの死者の書の心理学」1935年(『東洋的瞑想の心理学』創元社)
フランクル
場所を論じない。意味は行き先にではなく、いま生きている状況のなかに見いだされるとし、行き先を待つ姿勢そのものを退けた。出典:フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)
科学
神経科学
この問いを立てない。ただし、そうした像を人が見る体験は脳の活動として観察される。像があることと場所があることは分けて扱う。出典:カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年(原著第6版2021年)
進化生物学
この問いを立てない。ただし、赴く先を語る文化が人に広く見られること自体は、記述と説明の対象として扱われている。出典:フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年
宇宙論
観測できる範囲に、そうした場所は見つかっていない。天の上・地の下という古い区分は、現在の描像とは対応していない。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
量子力学
この問いに答えを持たない。別の次元という言い方が引き合いに出されることがあるが、理論の用語とは別の意味で使われている。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
現代の言説
神智学
死後に赴く層が段階として描かれ、行いに応じてそこに滞在するとされた。地獄を永遠の刑罰の場としては置いていない。出典:神智学協会(カーマローカ/デヴァチャン)
現代スピリチュアル
場所というより、次元や波動の高さとして語られる。地獄を罰の場として置かない語り方が多く、語り手ごとに内容が異なる。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
臨死体験の研究
生還者の報告に、庭・光・越えてはならない境界といった像が繰り返し現れることが記録されている。解釈は分かれる。出典:ムーディ『Life After Life』1975/AWARE研究
信仰を持たない立場
唯物論・無神論
そうした場所は存在しないとされる。天国と地獄は人が作り伝えてきた像であり、なぜ作られたのかのほうが問われることになる。出典:ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)
02

どこで割れているか

一つめ 場所として描くか、状態として語るか

細かい地誌を持つ側と、位置を置かない側に分かれます。場所として描くのは、説一切有部・ジャイナ教・イスラム教・神智学。庭や川や段階が具体的に出てきます。状態として語るのは、シク教・カバラー・正教・唯識。上と下は位置ではなく、神への近さや心のありようを指します。

二つめ 行き先が終点か、通過点か

一神教では、行き先は終点として置かれます。インドに始まる系統では、天界も地獄も一時の滞在先で、業が尽きればまた移ります。上座部が数える三十一の境涯には天界も地獄も入っていますが、目指されるのはそのどれでもなく、三十一の外です。

三つめ 賞罰と結びつくかどうか

行き先が必ず賞罰の場だとは限りません。ヘブライ語聖書の古い層では、善人も悪人も等しく同じ陰の場所へ降ります。日本の黄泉と常世も、賞罰の場としては描かれません。賞罰が結びつくのは後の時代の重ね書きで、はじめからではない——この問いでは、それがはっきり出ます。

03

出典の確認状況

この節は、読者に見える形で置いています。どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。

出典使った箇所状況
三十一の境涯(欲界11・色界16・無色界4)01節内訳まで確認
『阿弥陀経』「從是西方過十万億佛土」01節原文を確認
シェオル(ヘブライ語聖書に65回・賞罰と結びつかない)01節用例数まで確認
正教における地獄の理解(神を愛せないことの苦しみ)01節照会済
『阿毘達磨倶舎論』世間品/破我品01節照会済
ジャイナ宇宙論(ロカ・シッダシラー)01節照会済
世親『唯識三十頌』/護法釈『成唯識論』01節照会済
『バルド・トドゥル』01節照会済
『グル・グラント・サーヒブ』01節照会済
『論語』先進篇・八佾篇 第12章01節章まで特定
『荘子』至楽篇01節照会済
『古事記』上巻(黄泉・常世)01節照会済
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』01節照会済
エピクロス『メノイケウス宛書簡』124〜125節01節節まで特定
スピノザ『エチカ』第五部01節照会済
カント『実践理性批判』/『視霊者の夢』1766年01節照会済
ハイデガー『存在と時間』第二篇第一章(第46〜53節)01節節まで特定
道元『正法眼蔵』01節照会済
神智学協会(カーマローカ/デヴァチャン)01節照会済
ムーディ『Life After Life』1975/AWARE研究01節照会済
プラトン『国家』第十巻614a〜621d(エルの物語)01節原文を確認
タイザー『Reinventing the Wheel』2006年(輪廻図の典拠は根本説一切有部律)01節研究書を特定
『カトリック教会のカテキズム』1023〜1037(天国・煉獄・地獄)01節原文を確認
クルアーン 55章46節以下・56章27〜56節(楽園と業火)01節原文を確認
サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)01節章まで特定
ルーミー『マスナヴィー』01節照会済
『バーガヴァタ・プラーナ』第三巻15章01節照会済
柳田国男『先祖の話』1946年(山中他界)01節照会済
ユング「チベットの死者の書の心理学」1935年(『東洋的瞑想の心理学』創元社)01節章まで特定
カミュ『シーシュポスの神話』1942年01節照会済
デカルト『省察』1641年01節照会済
フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)01節章まで特定
カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年(原著第6版2021年)01節掲載誌・版元を確認
フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年01節掲載誌・版元を確認
プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年01節掲載誌・版元を確認
サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節01節掲載誌・版元を確認
ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)01節章まで特定
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」(刊行年と版元をつけた一覧)01節系譜のページに集約
『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)01節章節を特定
エピクテトス『語録』3巻13章14〜15節(ハデスもアケロンも無い)01節章節を特定
『自省録』01節章節を特定
ウパニシャッド01節章節を特定
『バガヴァッド・ギーター』01節章節を特定
『アビダンマッタ・サンガハ』第5章(欲界11・色界16・無色界4)01節章節を特定
『倶舎論』破我品に引かれた説01節章節を特定
世親『唯識三十頌』(玄奘訳)01節章節を特定
シェオル(ヘブライ語聖書に65回)01節章節を特定
来るべき世01節章節を特定
新約聖書01節章節を特定
カルヴァン『キリスト教綱要』1536年01節章節を特定
ガザーリー『宗教諸学の再興』01節章節を特定
『パイドン』01節章節を特定