目の前にあるものは、心とは別にそれ自体で在るのか。それとも、心が関わることで現れているのか。この問いには、外界を認める立場も、認めない立場も、問い自体を立てない立場もあります。同じ体裁で並べます。判定はしません。
並びは成立の古い順で、順位ではありません。一つの答えは同じ長さにそろえてあります。資料の多い立場ほど長くはなりません。
カバラーの「セフィロト」は三つの段階に分けて見る必要があります。語そのものと「十」という数が現れるのは『セフェル・イェツィラー』(3〜6世紀)ですが、そこでの意味は「数」であって、神の光の流出ではありません(ユダヤ百科事典)。流出として語られるのは『セフェル・ハ・バヒル』(12世紀後半)からで、体系として完成するのは十三世紀のヘローナ学派と『ゾーハル』です。上の欄は、流出として語られる段階を指しています。
この表にバークリーは入っていません。「存在するとは知覚されることである」(『人知原理論』第一部第3節・1710年)という一文で知られ、この問いに正面から答えた人ですが、四十二の名簿は九つの問いで共通に使っており、この問いのためだけに足すことをしていません。04節で原典に降りるときに扱います。
認める側に、サーンキヤ・ジャイナ教・エピクロス・デカルト・一神教のすべてが並びます。認めない側は多くありません。正面から認めないのは唯識です。ヴェーダーンタは「無い」ではなく「重ねて見られている」と言い、道教は夢と現の境を決めないまま置きます。インドの内部で、この線が正面からぶつかっています。仏教の主流も外界を否定しません。
ここを分けないと、まるで違う立場が同じに見えます。カントは、時間と空間を人の側の形式だとしましたが、世界を作るとは言っていません。神経科学も、見えているものは脳が組み立てた像だとしますが、外界が無いとは述べません。ユングも受け取り方の話に留めています。作るという言い方をするのは、四十二のうちごく限られた立場です。
儒教は関心を人と人のあいだに置き、禅は作る作らないを問わず、ハイデガーは問いの形そのものを外します。宇宙論は扱う枠組みを持たないと述べます。理由はそれぞれ別ですが、答えないことも一つの答え方です。
この問いに量子力学が持ち出されることがあります。そのとき語られている中身は、三つの別々の層に属しています。混ぜると不正確になります。分けたうえで、③を否定もしません。
測定を行うと、系は測られた量の固有状態のひとつになる、と書かれています。ここでの「観測」は測定装置を含む過程を指し、人の意識を必要とする書き方は取られていません。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節1項
フォン・ノイマンは、測定の連鎖をどこで切るかは大きな程度まで任意だと書きました。四百四十五ページのうち意識に触れるのは数ページで、意識が収縮を起こすとは述べていません。出典:フォン・ノイマン『量子力学の数学的基礎』1932年 第六章(井上健・広重徹・恒藤敏彦訳・みすず書房)
ウィグナーは、意識が収縮を起こす側に踏み込みました。友人が答える前は宙づりだったと述べ、心と身体の問題として論じています。ノイマンとは別の立場です。出典:ウィグナー「Remarks on the Mind-Body Question」1961年(『Symmetries and Reflections』1967年 171〜184頁に再録)
エヴェレットは、収縮そのものを置かない形を提案しました。観測者もろとも分岐すると考えるため、意識が何かを決める役割は無くなります。出典:エヴェレット「'Relative State' Formulation of Quantum Mechanics」『Reviews of Modern Physics』29巻3号 1957年 454〜462頁
物理学と東洋思想の重なりを説く書物が一九七〇年代に相次ぎ、広く読まれました。物理学の主張ではなく、それを引きながら別のことを述べる立場です。出典:カプラ『タオ自然学』1975年(吉福伸逸訳・工作舎1979年)/ズーカフ『踊る物理学者たち』1979年(佐野正博・大島保彦訳・青土社1985年)
二〇〇〇年代には映像を通じて広がりました。日本語にも訳されています。ここでは、誰がいつ述べたかを添えて、同じ体裁で並べます。退けるためではありません。出典:映画『What the Bleep Do We Know!?』2004年(日本語版書籍 ビジネス社 2008年)
物理学者への意識調査は行われています。ただし調査ごとに結果が真逆になります。ある調査ではコペンハーゲン解釈が四十二パーセントで最多でしたが、別の調査ではそれが四パーセントにとどまり、ド・ブロイ=ボームが六十三パーセントを占めました。後者は前者を名指しで「きわめて非代表的な集団への調査だ」と批判しています。
したがって「物理学者の多数がこう考えている」とは、どちら向きにも書けません。ただし「観測者が特別な物理的役割を果たす(意識が波動関数を収縮させる)」という選択肢への支持は、いずれの調査でも低い位置にありました。
出典=シュロスハウアーら「A Snapshot of Foundational Attitudes Toward Quantum Mechanics」2013年(回答者33名)/ノーセンとネルソン「Yet Another Snapshot of Foundational Attitudes Toward Quantum Mechanics」2013年。片方だけを引くと、実際にある食い違いが消えます。
これはただ表象のみである。実在しない対象が現れているからである。
眼を病んだ者が、実在しない毛の輪や月などを見るように。
外界を認めない立場が、どういう理屈でそう言うのかが、この一偈に収まっています。幻だと宣言しているのではなく、見えているのに実在しない例を挙げて、同じことが日常にも起きうると示す形です。
それらが在るとは、知覚されるということである。それらが、知覚する心や思考するもののそとに存在することはありえない。
バークリー『人知原理論』第一部 第3節(1710年)唯識の一偈から千二百年ほどのちに、まったく別の場所で書かれた文です。互いを読んではいません。同じ側に来たことと、影響関係があることは、別の話です。
時間と空間は、事物そのものに属する性質ではなく、私たちが事物を受け取るときの形式である。
カント『純粋理性批判』超越論的感性論(要旨)この一文は、しばしば「心が世界を作る」と要約されます。ですがカントは、物自体は知りえないと置いたのであって、心が作るとは述べていません。02節の二つめの割れ目は、ここに関わります。
この二人は一つの名前で呼ばれることがあります。ですが本文にあたると、ノイマンは切れ目を任意に置けると述べ、意識が収縮を起こすとは書いていません。踏み込んだのはウィグナーのほうです。ひとまとめにすると、①と②の区別そのものが崩れます。
ヴェーダーンタの世界観は、しばしば「世界は幻(マーヤー)だ」と要約されます。ですがシャンカラ自身は、この語を専門用語としてはあまり用いていません。体系だった説は後代のアドヴァイタが展開したもので、それをシャンカラ本人に読み込めるかは論争があります。01節では、彼が実際に置いた「重ねて見る(付託)」の語で書いています。
この節は、読者に見える形で置いています。どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。
| 出典 | 使った箇所 | 状況 |
|---|---|---|
| 世親『唯識二十論』第1偈 | 01・04節 | 原文と英訳を確認 |
| 護法釈『成唯識論』 | 01節 | 照会済 |
| 『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章2節1 | 01節 | 原文を確認 |
| シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論 | 01・05節 | 付託論の位置を確認 |
| 『バガヴァッド・ギーター』 | 01節 | 照会済 |
| イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀) | 01節 | 照会済 |
| ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』(2世紀) | 01節 | 照会済 |
| 『無我相経』相応部22.59 | 01節 | 原文を確認 |
| 世親『阿毘達磨倶舎論』分別界品 | 01節 | 品まで特定 |
| 『倶舎論』破我品に引かれた説 | 01節 | 照会済 |
| 『無量寿経』第十八願 | 01節 | 照会済 |
| 道元『正法眼蔵』現成公案 | 01節 | 原文を確認 |
| 第三代カルマパ『了義大印祈願文』 | 01節 | 原文を確認 |
| 『グル・グラント・サーヒブ』 | 01節 | 照会済 |
| 『論語』述而篇 第20章 | 01節 | 原文を確認 |
| 『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢) | 01節 | 原文を確認 |
| 『古事記』上巻(天地初発之時) | 01節 | 原文を確認 |
| 柳田国男『先祖の話』1946年 | 01節 | 照会済 |
| 創世記 1章3節 | 01節 | 節まで特定 |
| 『セフェル・ハ・バヒル』(12世紀後半)/『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年) | 01節 | 三つの段階まで特定 |
| 『カトリック教会のカテキズム』296〜298 | 01節 | 段落を確認 |
| グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別) | 01節 | 照会済 |
| カルヴァン『キリスト教綱要』1536年 | 01節 | 照会済 |
| クルアーン 2章117節 | 01節 | 節まで特定 |
| クライニー『アル・カーフィー』(10世紀) | 01節 | 照会済 |
| イブン・アラビー(存在一性論) | 01節 | 照会済 |
| プラトン『ティマイオス』28a〜29a | 01節 | 原文を確認 |
| エピクロス『ヘロドトス宛書簡』45節 | 01節 | 節まで特定 |
| エピクテトス『提要』第5章 | 01節 | 原文を確認 |
| デカルト『哲学原理』1644年 第二部9〜10項 | 01節 | 項まで特定 |
| スピノザ『エチカ』第二部 定理13 | 01節 | 定理まで特定 |
| カント『純粋理性批判』(超越論的感性論) | 01・04節 | 該当部を確認 |
| ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在) | 01節 | 節まで特定 |
| サルトル『存在と無』1943年 | 01節 | 刊行年を確認 |
| ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」 | 01節 | 収録を確認 |
| フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」 | 01節 | 節まで特定 |
| カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年 | 01節 | 版と刊行年を確認 |
| マイア「生物学における原因と結果」1961年 | 01節 | 掲載誌と巻号を確認 |
| プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年 | 01節 | 掲載誌と論文番号を確認 |
| サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節1項 | 01・03節 | 節と本文を確認 |
| フォン・ノイマン『量子力学の数学的基礎』1932年 第六章 | 03・05節 | 該当章と邦訳を確認 |
| ウィグナー「Remarks on the Mind-Body Question」1961年 | 03・05節 | 再録の頁を確認 |
| エヴェレット『Reviews of Modern Physics』29巻3号 1957年 | 03節 | 巻号と頁を確認 |
| シュロスハウアーら「A Snapshot of Foundational Attitudes」2013年 | 03節 | 回答者数と数値を確認 |
| ノーセンとネルソン「Yet Another Snapshot」2013年 | 03節 | 数値と批判の記述を確認 |
| カプラ『タオ自然学』1975年(吉福伸逸訳・工作舎1979年) | 03節 | 原著と邦訳を確認 |
| ズーカフ『踊る物理学者たち』1979年(青土社1985年) | 03節 | 原著と邦訳を確認 |
| 映画『What the Bleep Do We Know!?』2004年 | 03節 | 制作年と日本語版を確認 |
| バークリー『人知原理論』第一部 第3節(1710年) | 01・04節 | 原文を確認 |
| H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年 | 01節 | 初版の扉を確認 |
| 系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」 | 01節 | 系譜のページに集約 |
| AWARE研究 2008〜2014 | 01節 | 照会済 |
| ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」 | 01節 | 収録を確認 |