軸 5 / 宇宙をめぐる問い

現実は心が作るのか

目の前にあるものは、心とは別にそれ自体で在るのか。それとも、心が関わることで現れているのか。この問いには、外界を認める立場も、認めない立場も、問い自体を立てない立場もあります。同じ体裁で並べます。判定はしません。

01

四十二の立場が、それぞれ何と答えているか

並びは成立の古い順で、順位ではありません。一つの答えは同じ長さにそろえてあります。資料の多い立場ほど長くはなりません。

インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(ヴェーダーンタ)
世界は根本のものの現れとされる。心が作るのではなく、無明によって別のものが重ねて見られていると説かれる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章2節1/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
物質は心とは別に、それ自体として在るとされる。見る側と見られる側を分ける立場を、はっきり取っている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
ヒンドゥー教
(信愛の道)
世界は神のものとして在り、人の心が作るのではないとされる。心が向かう相手のほうに、重心が置かれる。出典:『バガヴァッド・ギーター』
ジャイナ教
世界は心とは別に実在するとされる。ものごとは見る角度によって違って現れる、という形で多面性が説かれる。出典:ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』(2世紀)
仏教・上座部
外の世界を無いとはしない。ただし、私たちが見ているものは感官と心の働きを通ったものだと説かれる。出典:『無我相経』相応部22.59
仏教・説一切有部
世界を構成する要素のほうは実在するとした。自己は認めないが、外界まで否定する立場は取らない。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』分別界品
仏教・犢子部
この問いには踏み込まない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかのほうに置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
仏教・唯識
外界の対象は識のあらわれだとされる。眼を病んだ人が、実在しない毛の輪を見てしまう例によって説明される。出典:世親『唯識二十論』第1偈/護法釈『成唯識論』
仏教・浄土教
この問いを主題としない。浄土は仏の願いによって建てられたものとされ、人の心が作るとは説かれていない。出典:『無量寿経』第十八願
仏教・禅(道元)
作るか作らないかを問わない。薪と灰の喩えのように、いま現れているそのものとして受け取る構えを取る。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
仏教・チベット
現れは心の本性のあらわれとして説かれる。ただし、思いどおりに作れるという意味では説かれていない。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』
シク教
世界は神の命によって在るとされる。人の心が作るのではなく、真理として在るものが認められている。出典:『グル・グラント・サーヒブ』
中国に始まる系統
儒教
この問いを立てない。関心は、人と人のあいだをどう整えるかにあり、世界の成り立ちは主題にならない。出典:『論語』述而篇 第20章
道教(荘子)
夢と現の境が問い直される。胡蝶の夢では、どちらが本当かを決めないまま、変化そのものが語られる。出典:『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢)
日本
神道(古典神話)
世界は神々のはたらきによって成ったとされる。人の心が作るという語り方は、そもそも取られていない。出典:『古事記』上巻(天地初発之時)
神道(祖霊の観念)
この問いを立てない。見えないものが働いているという受けとめが、暮らしの行事の形で続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
世界は神が造ったものとされる。人の心が作るのではなく、造られたものとしてはっきり区別されている。出典:創世記 1章3節
ユダヤ教(カバラー)
世界は神の光が段階を経て現れたものとされる。人の側の行いが、その現れに関わるとも語られてきた。出典:『セフェル・ハ・バヒル』(12世紀後半)/『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
キリスト教
(カトリック)
世界は神が無から造ったものとされる。心が作るのではなく、人もまた造られた側に置かれることになる。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298
キリスト教(正教)
同じく造られたものとする。加えて、世界を神のはたらきの現れとして受け取る見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
キリスト教
(プロテスタント)
同じく無からの創造を立てる。世界は神の栄光を映すものとされ、人の心が作り出すものとはされていない。出典:創世記 1章3節/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
イスラム教(スンナ派)
世界は神が「在れ」と言うことで在るとされる。人の心が作る余地は置かれず、造る側と造られる側が分けられている。出典:クルアーン 2章117節
イスラム教(シーア派)
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手を通して世界の秩序を読み解くことに、積極的な意味が置かれてきた。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
イスラム教
(スーフィズム)
在るのは神だけだとする見方がある。世界は独立して在るのではなく、神の現れとして受け取られる。出典:イブン・アラビー(存在一性論)

カバラーの「セフィロト」は三つの段階に分けて見る必要があります。語そのものと「十」という数が現れるのは『セフェル・イェツィラー』(3〜6世紀)ですが、そこでの意味は「数」であって、神の光の流出ではありません(ユダヤ百科事典)。流出として語られるのは『セフェル・ハ・バヒル』(12世紀後半)からで、体系として完成するのは十三世紀のヘローナ学派と『ゾーハル』です。上の欄は、流出として語られる段階を指しています。

ギリシアに始まる哲学
プラトン
目に見える世界は、変わらない原型を写したものとされる。写しであるかぎり、完全ではありえない。出典:プラトン『ティマイオス』28a〜29a
エピクロス
世界は原子と空虚からなるとされる。心もまた原子でできており、外の世界は心とは別に在るとされる。出典:エピクロス『ヘロドトス宛書簡』45節
ストア派
世界は理法に貫かれて在るとされる。変えられるのは外の事柄ではなく、それについての判断のほうである。出典:エピクテトス『提要』第5章
デカルト
精神と物体を分けた。物体は広がりを持つものとして、精神とは別に在るという形で立てられている。出典:デカルト『哲学原理』1644年 第二部9〜10項
スピノザ
精神と物体は、同じ一つのものの二つの現れとされる。どちらかが他方を作るという関係には置かれない。出典:スピノザ『エチカ』第二部 定理13
カント
時間と空間は世界の側の性質ではなく、人が世界を受け取る形式だとした。物自体は知りえないとされる。出典:カント『純粋理性批判』(超越論的感性論)
ハイデガー
世界を、物の集まりとしてではなく、人が関わりながら在る場として捉え直す。作る作らないの問いを外す。出典:ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)
実存主義
(サルトル・カミュ)
世界そのものは意味を持たずに在るとされる。意味を与えるのは人の側だが、世界を作るのではない。出典:サルトル『存在と無』1943年
心理学
ユング
心の深い層が、世界の受け取り方を形づくるとした。ただし世界そのものを作るとは述べておらず、受け取る側の話に留めている。出典:ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店)
フランクル
世界の側に意味が在るかは論じない。問われている状況に、人がどう応えるかのほうへ問いを向けた。出典:フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)
科学
神経科学
見えているものは、脳が入力から組み立てた像だと説明される。ただし外界が無いとは述べていない。出典:カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年(原著第6版2021年)
進化生物学
感覚は生き延びるのに役立つ形へ整えられたと説明される。世界をありのまま写すためとは説かれていない。出典:マイア「生物学における原因と結果」1961年
宇宙論
この問いを扱う枠組みを持たない。観測にもとづいて宇宙の来歴をたどるが、心の関わりは扱わない。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
量子力学
教科書は「観測」を測定装置を含む過程として書く。人の意識を必要とする書き方は取られていない。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
現代の言説
神智学
世界は複数の層からなり、心はその一つに属するとされた。層のあいだに対応があると説かれている。出典:H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年
現代スピリチュアル
思ったことが現実になるという語り方が広く用いられる。物理学の語を借りる例も多いが、語り手ごとに内容は異なる。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
臨死体験の研究
体験の報告は集めるが、現実が心で作られるかは扱わない。何が起きたかと、何を示すかを分けている。出典:AWARE研究 2008〜2014
信仰を持たない立場
唯物論・無神論
現実は心とは別に在るとされる。心のほうが、身体という物質のはたらきとして説明される側に置かれる。出典:ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)

この表にバークリーは入っていません。「存在するとは知覚されることである」(『人知原理論』第一部第3節・1710年)という一文で知られ、この問いに正面から答えた人ですが、四十二の名簿は九つの問いで共通に使っており、この問いのためだけに足すことをしていません。04節で原典に降りるときに扱います。

02

どこで割れているか

一つめ 外の世界を、心と別に認めるか

認める側に、サーンキヤ・ジャイナ教・エピクロス・デカルト・一神教のすべてが並びます。認めない側は多くありません。正面から認めないのは唯識です。ヴェーダーンタは「無い」ではなく「重ねて見られている」と言い、道教は夢と現の境を決めないまま置きます。インドの内部で、この線が正面からぶつかっています。仏教の主流も外界を否定しません。

二つめ 心が「作る」のか、「受け取り方を決める」のか

ここを分けないと、まるで違う立場が同じに見えます。カントは、時間と空間を人の側の形式だとしましたが、世界を作るとは言っていません。神経科学も、見えているものは脳が組み立てた像だとしますが、外界が無いとは述べません。ユングも受け取り方の話に留めています。作るという言い方をするのは、四十二のうちごく限られた立場です。

三つめ 問いを立てない、という答え方

儒教は関心を人と人のあいだに置き、禅は作る作らないを問わず、ハイデガーは問いの形そのものを外します。宇宙論は扱う枠組みを持たないと述べます。理由はそれぞれ別ですが、答えないことも一つの答え方です。

03

量子力学は、三つに分けて読む

この問いに量子力学が持ち出されることがあります。そのとき語られている中身は、三つの別々の層に属しています。混ぜると不正確になります。分けたうえで、③を否定もしません。

① 教科書に書いてあること

測定を行うと、系は測られた量の固有状態のひとつになる、と書かれています。ここでの「観測」は測定装置を含む過程を指し、人の意識を必要とする書き方は取られていません。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節1項

② 物理学者個人の解釈(その一)

フォン・ノイマンは、測定の連鎖をどこで切るかは大きな程度まで任意だと書きました。四百四十五ページのうち意識に触れるのは数ページで、意識が収縮を起こすとは述べていません。出典:フォン・ノイマン『量子力学の数学的基礎』1932年 第六章(井上健・広重徹・恒藤敏彦訳・みすず書房)

② 物理学者個人の解釈(その二)

ウィグナーは、意識が収縮を起こす側に踏み込みました。友人が答える前は宙づりだったと述べ、心と身体の問題として論じています。ノイマンとは別の立場です。出典:ウィグナー「Remarks on the Mind-Body Question」1961年(『Symmetries and Reflections』1967年 171〜184頁に再録)

② 物理学者個人の解釈(その三)

エヴェレットは、収縮そのものを置かない形を提案しました。観測者もろとも分岐すると考えるため、意識が何かを決める役割は無くなります。出典:エヴェレット「'Relative State' Formulation of Quantum Mechanics」『Reviews of Modern Physics』29巻3号 1957年 454〜462頁

③ それを援用した、物理学の外側の主張

物理学と東洋思想の重なりを説く書物が一九七〇年代に相次ぎ、広く読まれました。物理学の主張ではなく、それを引きながら別のことを述べる立場です。出典:カプラ『タオ自然学』1975年(吉福伸逸訳・工作舎1979年)/ズーカフ『踊る物理学者たち』1979年(佐野正博・大島保彦訳・青土社1985年)

③ そのつづき

二〇〇〇年代には映像を通じて広がりました。日本語にも訳されています。ここでは、誰がいつ述べたかを添えて、同じ体裁で並べます。退けるためではありません。出典:映画『What the Bleep Do We Know!?』2004年(日本語版書籍 ビジネス社 2008年)

「どの解釈が主流か」を数字で言うことはできません

物理学者への意識調査は行われています。ただし調査ごとに結果が真逆になります。ある調査ではコペンハーゲン解釈が四十二パーセントで最多でしたが、別の調査ではそれが四パーセントにとどまり、ド・ブロイ=ボームが六十三パーセントを占めました。後者は前者を名指しで「きわめて非代表的な集団への調査だ」と批判しています。

したがって「物理学者の多数がこう考えている」とは、どちら向きにも書けません。ただし「観測者が特別な物理的役割を果たす(意識が波動関数を収縮させる)」という選択肢への支持は、いずれの調査でも低い位置にありました。

出典=シュロスハウアーら「A Snapshot of Foundational Attitudes Toward Quantum Mechanics」2013年(回答者33名)/ノーセンとネルソン「Yet Another Snapshot of Foundational Attitudes Toward Quantum Mechanics」2013年。片方だけを引くと、実際にある食い違いが消えます。

04

原典に降りる

これはただ表象のみである。実在しない対象が現れているからである。
眼を病んだ者が、実在しない毛の輪や月などを見るように。

世親『唯識二十論』第1偈(サンスクリット原文からの訳)

外界を認めない立場が、どういう理屈でそう言うのかが、この一偈に収まっています。幻だと宣言しているのではなく、見えているのに実在しない例を挙げて、同じことが日常にも起きうると示す形です。

それらが在るとは、知覚されるということである。それらが、知覚する心や思考するもののそとに存在することはありえない。

バークリー『人知原理論』第一部 第3節(1710年)

唯識の一偈から千二百年ほどのちに、まったく別の場所で書かれた文です。互いを読んではいません。同じ側に来たことと、影響関係があることは、別の話です。

時間と空間は、事物そのものに属する性質ではなく、私たちが事物を受け取るときの形式である。

カント『純粋理性批判』超越論的感性論(要旨)

この一文は、しばしば「心が世界を作る」と要約されます。ですがカントは、物自体は知りえないと置いたのであって、心が作るとは述べていません。02節の二つめの割れ目は、ここに関わります。

05

掘って分かったこと

「ノイマン=ウィグナー解釈」とひとまとめにすると、層が崩れます

この二人は一つの名前で呼ばれることがあります。ですが本文にあたると、ノイマンは切れ目を任意に置けると述べ、意識が収縮を起こすとは書いていません。踏み込んだのはウィグナーのほうです。ひとまとめにすると、①と②の区別そのものが崩れます。

シャンカラは「マーヤー」をあまり使っていません

ヴェーダーンタの世界観は、しばしば「世界は幻(マーヤー)だ」と要約されます。ですがシャンカラ自身は、この語を専門用語としてはあまり用いていません。体系だった説は後代のアドヴァイタが展開したもので、それをシャンカラ本人に読み込めるかは論争があります。01節では、彼が実際に置いた「重ねて見る(付託)」の語で書いています。

06

出典の確認状況

この節は、読者に見える形で置いています。どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。

出典使った箇所状況
世親『唯識二十論』第1偈01・04節原文と英訳を確認
護法釈『成唯識論』01節照会済
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章2節101節原文を確認
シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論01・05節付託論の位置を確認
『バガヴァッド・ギーター』01節照会済
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)01節照会済
ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』(2世紀)01節照会済
『無我相経』相応部22.5901節原文を確認
世親『阿毘達磨倶舎論』分別界品01節品まで特定
『倶舎論』破我品に引かれた説01節照会済
『無量寿経』第十八願01節照会済
道元『正法眼蔵』現成公案01節原文を確認
第三代カルマパ『了義大印祈願文』01節原文を確認
『グル・グラント・サーヒブ』01節照会済
『論語』述而篇 第20章01節原文を確認
『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢)01節原文を確認
『古事記』上巻(天地初発之時)01節原文を確認
柳田国男『先祖の話』1946年01節照会済
創世記 1章3節01節節まで特定
『セフェル・ハ・バヒル』(12世紀後半)/『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)01節三つの段階まで特定
『カトリック教会のカテキズム』296〜29801節段落を確認
グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)01節照会済
カルヴァン『キリスト教綱要』1536年01節照会済
クルアーン 2章117節01節節まで特定
クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)01節照会済
イブン・アラビー(存在一性論)01節照会済
プラトン『ティマイオス』28a〜29a01節原文を確認
エピクロス『ヘロドトス宛書簡』45節01節節まで特定
エピクテトス『提要』第5章01節原文を確認
デカルト『哲学原理』1644年 第二部9〜10項01節項まで特定
スピノザ『エチカ』第二部 定理1301節定理まで特定
カント『純粋理性批判』(超越論的感性論)01・04節該当部を確認
ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)01節節まで特定
サルトル『存在と無』1943年01節刊行年を確認
ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」01節収録を確認
フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」01節節まで特定
カンデルら『カンデル神経科学』第2版 2022年01節版と刊行年を確認
マイア「生物学における原因と結果」1961年01節掲載誌と巻号を確認
プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年01節掲載誌と論文番号を確認
サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節1項01・03節節と本文を確認
フォン・ノイマン『量子力学の数学的基礎』1932年 第六章03・05節該当章と邦訳を確認
ウィグナー「Remarks on the Mind-Body Question」1961年03・05節再録の頁を確認
エヴェレット『Reviews of Modern Physics』29巻3号 1957年03節巻号と頁を確認
シュロスハウアーら「A Snapshot of Foundational Attitudes」2013年03節回答者数と数値を確認
ノーセンとネルソン「Yet Another Snapshot」2013年03節数値と批判の記述を確認
カプラ『タオ自然学』1975年(吉福伸逸訳・工作舎1979年)03節原著と邦訳を確認
ズーカフ『踊る物理学者たち』1979年(青土社1985年)03節原著と邦訳を確認
映画『What the Bleep Do We Know!?』2004年03節制作年と日本語版を確認
バークリー『人知原理論』第一部 第3節(1710年)01・04節原文を確認
H・P・ブラヴァツキー『The Secret Doctrine』全2巻 1888年01節初版の扉を確認
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」01節系譜のページに集約
AWARE研究 2008〜201401節照会済
ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」01節収録を確認