軸 6 / 苦しみをめぐる問い

なぜ苦しみがあるのか

誰かが与えたものなのか、自分の行いが返ってきたものなのか、そもそも理由が無いのか。取り除くものなのか、受け取るものなのか。世界の宗教・哲学・科学・現代の言説が何と答えてきたかを並べます。判定はしません。

01

答えを並べる

同じ名前の宗教でも、この問いでは答えが割れます。割れているところまで降りて書きます。割れていないところは割りません。一つの答えは長さをそろえてあり、資料の多い立場ほど長くなることがないようにしています。

インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(ヴェーダーンタ)
苦しみは過去の行いの結果として受け取られる。本来の自己は苦に触れておらず、取り違えが続くかぎり苦も続く。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』
本来の自己は行為の結果に触れないとされる。にもかかわらず、身体や心のほうを自分だと取り違えているあいだは、その取り違えのぶんだけ苦が生じ続ける。だから苦そのものを消しにいくのではなく、取り違えのほうを解くことが説かれる。結果を手放して行為せよという教えも、同じ向きの実践として置かれており、行いをやめることは求められていない。
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
苦しみを出発点に置く。精神と物質を取り違えていることが苦の原因であり、見分けがつけば苦は終わるとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
出発点に三種の苦を置き、それを免れる道としてこの体系全体が立てられている。見るはたらきと、見られるものとしての自然は本来まったく別のものなのに、両者が混同されている。区別がついた瞬間に、見るはたらきはもう巻き込まれない。苦は打ち消されるのではなく、成り立つ足場のほうを失うという順で説明されることになる。
ヒンドゥー教
(信愛の道)
苦しみは神との隔たりとして受け取られる。神に身を委ねることで、苦は消えなくともその意味を変えるとされる。出典:『バガヴァッド・ギーター』
苦しみの原因を要素に分けて分析するより、神との隔たりの現れとして受け取る。委ねることによって境遇そのものは変わらなくとも、それが誰に向けられたものかのほうが変わる。ギーターは行為の結果を神に捧げよと説いており、苦を担う相手を自分ひとりから神のほうへ移す形が、そのまま歩むべき道として示されている。
ジャイナ教
苦しみは、過去の行為が魂に付いた結果とされる。誰かの意図によるのではなく、自分の行いが自分に返ってくる。出典:ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』(2世紀)
行為は微細な物質として魂に付着し、その重みが後の苦として返ってくるとされる。誰かの意図が介在しないので、恨むべき相手がどこにも現れない。説かれるのは、新たな付着を止めることと、すでに付いてしまったものを落とすことの二つで、傷つけないことと苦行が、それぞれの方法としてはっきり置かれている。
仏教・上座部
苦しみがあることが、教えの出発点そのものに置かれる。原因は渇きであり、それが尽きれば苦も尽きると説く。出典:四諦(苦・集・滅・道)/初転法輪
四諦は、苦があると認めるところから始めて、原因・止滅・道へ進む順に組まれている。原因は外の出来事ではなく渇き、つまり有ってほしい・無くなってほしいという求めのほうに置かれる。渇きが尽きれば苦も尽きるとされ、そこへ至る道筋が八正道として、考え方から日々の行いの形まで具体的に示されている。
仏教・説一切有部
同じ枠組みを取りながら、苦が生じる仕組みを要素の因果として細かく分析した。原因は外側には求められない。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』業品
苦の枠組みそのものは共有しつつ、それが生じていく過程を要素に分けて記述した。どのはたらきがどの条件のもとで次を呼ぶのかを列挙し、業と煩悩の働き方を細かく分類していく。原因を自分の外に求めないという点は最後まで変わっておらず、変わったのは説明の細かさと、体系としての組み立て方のほうである。
仏教・犢子部とくしぶ
苦の説明そのものは部派に共通する枠組みを用い、そこを離れる独自の主張を残していない。関心は主体の側にある。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
この問いについては部派に共通する枠組みをそのまま用いており、そこを離れる主張を残していない。この学派の関心は、苦を受ける主体をどう説明するかのほうに向かっており、そこで他の部派と鋭く対立した。議論が集まっているのは苦がどこから来るかではなく、苦を担うものが在るのか無いのかという一点である。
仏教・唯識
苦しみもまた心の現れとされる。外の出来事そのものではなく、それを受け取る側の働きに原因が求められる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
外の出来事がそのまま苦をもたらすのではなく、それを受け取る側の識のはたらきのほうが苦を成り立たせるとされる。同じ出来事が人によってまったく違って現れるのは、そのためだと説明される。だから対処の向きも変わることになり、外の状況を変えるのではなく、識のほうを転じることに実践が集められている。
仏教・浄土教
自力では苦を抜けられない者として自分を見る。そこから、仏の力に委ねる道が開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
自分の力で苦を抜けられる者だと見ること自体を、まず止める。抜けられない者として自分を見たところから、仏の力に委ねる道のほうが開かれてくる。歎異抄は、善人よりもむしろ自力を頼めない者こそが本願の相手なのだという形で、この順序が入れ替わってはならないことを、はっきりと言い切っている。
仏教・禅(道元)
苦を消すべきものとしては扱わない。逃れようとする構えのほうを問い、いまのありようへ戻していく。出典:道元『弁道話』1231年
苦を消すべき対象として立てると、消そうとする構えのほうが新しい苦を作り出してしまう。道元は、悟りを求めて修行するのではなく修行することがそのまま悟りなのだとし、いまのありようを離れないことを説いた。苦もまた、そこから逃れるべき対象としては扱われず、いまの側に置かれたままにされている。
仏教・チベット
苦しみは輪廻の全体に行き渡るとされる。同時に、他者の苦を引き受ける修行が具体的に説かれてきた。出典:ロジョン(心の訓練法)のトンレン
輪廻のどこにいても苦は行き渡っているとされる。そのうえで、他者の苦を吸い込み、自分の幸いのほうを送り出すという修行が、具体的な手順として組まれている。苦を減らす方向ではなく引き受ける方向へ向ける点に特徴があり、呼吸に合わせて、特別な場ではなく日常のなかで繰り返し行われる形になっている。
シク教
苦も楽も、ともに神から来るものとして受け取られる。どちらにも動かされないことが目指される態度になる。出典:『グル・グラント・サーヒブ』
苦も楽も、どちらも等しく神の意志から来るものとして同じ位置に置かれる。だから楽を求めて苦を避けるという動きそのものが、あらかじめ問い直されることになる。目指されるのはどちらにも動かされない状態で、神の名を唱え続けることが、そこへ向かうための日々の手立てとして説かれている。
中国に始まる系統
儒教
苦しみの起源を論じない。天命として受け取ったうえで、なすべきことを果たすほうが問われることになる。出典:『論語』為政篇 第4章
苦しみの起源には踏み込まない。孔子は五十にして天命を知ると述べており、与えられた条件のほうは、受け取るものとして扱われている。問われるのは、その条件のなかで何をなすかである。起源を説明しないという構えそのものが、この立場では消極的な沈黙ではなく、選ばれた一つの態度になっている。
道教(荘子)
苦しみは、物事を分けて良し悪しをつけるところから生じるとされる。分けなければ、苦も立ち上がらない。出典:『荘子』斉物論篇
物事を大小や美醜に分けて良し悪しをつけるところから、苦は立ち上がるとされる。斉物論は、その区別自体が立つ位置によって次々に入れ替わることを示していき、分けることの根拠のほうを崩していく。分けなければ苦の掛かる場所そのものが無くなる、という順で議論が進められていくことになる。
日本
神道(古典神話)
苦しみの起源を教義として説かない。穢れは祓うものとされ、原因を問うよりも清めることが行われる。出典:『古事記』上巻/祓の儀礼
苦しみの起源を教義として説く形を、そもそも取らない。代わりに、穢れは付くものであり、祓えば落ちるものとして扱われる。なぜ付いたのかを問うよりも、清めて元の状態に戻すことのほうが実際に行われる。説明ではなく手続きが用意されているという点に、この立場の性格がよく表れている。
神道(祖霊の観念)
災いは、祀られない霊や自然の力によるものとして受けとめられてきた。鎮めることが対処の中心になる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
災いは、祀られないままの霊や、鎮まっていない自然の力によるものとして受けとめられてきた。原因を個人の行いに帰さないので、責めるべき相手が誰も現れないという形になる。対処は祀ることと鎮めることに集まり、教義としてではなく、年ごとに繰り返される行事の形で受け継がれてきた。
西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
ヨブ記は、正しい者がなぜ苦しむのかを正面から問う。神は答えを与えず、逆にヨブへ問い返している。出典:ヨブ記 38章(つむじ風のなかから)
ヨブ記は、正しい者が苦しむという事実を、説明を付けないまま置いている。友人たちは行いと報いの因果によって説明しようとするが、その説明のほうがむしろ退けられる。つむじ風のなかから語られるのは答えではなく問い返しであり、なぜ苦しむのかは最後まで示されないまま終わっている。
ユダヤ教
(カバラー)
苦しみは、神が身を退いたときに器が割れたことから生じたと説かれる。その修復に人も加わるとされる。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第9門「器の破れの門」
神が身を退いて場所を空けたとき、光を受けるための器が耐えきれずに割れたとされる。苦しみはその破れの結果であり、世界のほうがまだ完成していないということになる。人の行いは、散らばった破片を集め直す働きに数えられ、修復に加わるものとして位置づけられている。人の側に役割が残される。
キリスト教
(カトリック)
苦しみは、人に自由が与えられていることの代償として説明される。加えて、キリストの受難と結ばれる。出典:『カトリック教会のカテキズム』309〜314
神が人に自由を与えた以上、悪を選ぶ余地もそこに残ることになる。苦しみはその代償として説明され、神が意図して与えたものだとはされない。加えて、キリストが受けた苦しみと結びつけられることによって、ただ耐えるほかないものから、意味を持ちうるものへと置き直される道が示される。
キリスト教
(正教)
同じく自由に由来するとしたうえで、苦しみを神へ近づいていく過程として受け取る見方が保たれている。出典:エイレナイオス『異端反駁』第四巻37〜39章
自由に由来するという点は同じだが、苦しみを、人がまだ成長の途上にあることの現れとして受け取る見方が保たれている。エイレナイオスは、人は完成された姿で造られたのではなく、育っていくものとして造られたのだと述べており、未熟であること自体は欠陥とはされず、過程として扱われる。
キリスト教
(プロテスタント)
苦しみの理由を人が知り尽くすことはできないとする。そのうえで、神への信頼のほうが問われるとされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
なぜ苦しむのかを、人の側が知り尽くすことはできないとされる。神の定めは人から見通せるものではないという前提が先に置かれ、説明を求めること自体がそこで問い直される。そのうえで問われるのは、理由が分からないままの状態でも、なお信頼できるかどうかのほうになっていく。
イスラム教
(スンナ派)
苦しみは試練として置かれる。耐えることに報いがあるとされ、意味は現世で完結しないと説かれている。出典:クルアーン 2章155節ほか
苦しみは試練として置かれる。クルアーンは、恐れ・飢え・財産や命の減少によって試すと述べたうえで、耐える者への報いを約束している。意味は現世のうちに完結しないとされるので、いま報われていないという事実は、意味が無いことの証拠にはならない。判断が先送りされる形になる。
イスラム教
(シーア派)
同じ枠組みを共有する。加えて、殉じた者の苦しみを記憶し、悼むことが信仰の中心に置かれてきた。出典:『ズィヤーラト・アーシューラー』(『カーミル・アッ・ズィヤーラート』所収)
試練という枠組みそのものは共有している。加えて、殉じた者の受けた苦しみを記憶し、悼み続けることが、信仰の実践の中心に置かれてきた。参拝の言葉を唱え、その苦を自分のものとして繰り返し思い起こす形が、個人の心構えにとどまらず、共同体の年中行事として受け継がれている。
イスラム教
(スーフィズム)
苦しみは、自我を削るための道具として受け取られる。神に近づくために欠かせないものとされている。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
苦しみは、自我を削り取るための道具として受け取られる。快がそのまま続くのであれば自我は保たれ、神との隔たりもまた保たれたままになってしまう。だから苦は避けるものではなく通るものとして置かれる。ルーミーは、葦原から切り離された葦が音を出すという形で、この隔たりと嘆きを語っている。
ギリシアに始まる哲学
プラトン
苦しみは、魂が身体に囚われていることから生じるとされる。知に向かうことで、その縛りは弱まっていく。出典:プラトン『パイドン』82e〜83a
魂は本来は知に向かうものだが、身体に囚われているために、身体の欲するところへ引き回されることになる。パイドンは、身体こそが魂を縛るものだと述べている。知へ向かうことはその縛りをゆるめる働きを持ち、苦しみもそのぶん弱まっていくという順で説明される。向かう先が変われば縛りも変わる。
エピクロス
苦しみの多くは、要らない欲と、根拠のない恐れから来るとされる。取り除けば、苦は小さくなっていく。出典:エピクロス『メノイケウス宛書簡』
苦しみの多くは、無くても済む欲と、死や神についての根拠のない恐れから来るとされる。欲を自然で必要なものにまで絞り、恐れのほうも根拠を一つずつ検討して取り除いていけば、残る苦は小さい。だから取り組むべき相手は、出来事そのものではなく、それに付けた思い込みのほうだということになる。
ストア派
苦しみは出来事そのものではなく、それについての判断から生じるとされる。判断のほうは変えられる。出典:エピクテトス『提要』第5章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23
人を乱すのは出来事ではなく、出来事についての判断のほうだとされる。同じ事に遭っても人によって反応が違うのは、そのためだと説明される。出来事は自分の力の及ばないものに、判断は及ぶものに分けられ、及ぶ側にだけ取り組むという実践がそこから導かれる。分けることが最初の作業になる。
デカルト
苦しみの意味を論じない。心と身体の関わりを説明する枠組みのなかで、感覚の一つとして位置づけられる。出典:デカルト『情念論』1649年
苦しみの意味という形では論じない。情念は心と身体の結びつきから生じるものとして分類され、痛みや悲しみも、その一覧のなかの一項目として置かれることになる。扱いの向きは、なぜ在るのかではなく、どのように生じ、どこまで制御しうるのかという方向にそろえられている。目的は問われない。
スピノザ
苦しみは、外のものに動かされている度合いとして説明される。理解が進むほど、動かされにくくなる。出典:スピノザ『エチカ』第三部・第五部
感情は、外のものによってどれだけ動かされているかの度合いとして説明される。原因を理解できていないほど強く動かされ、理解が進むほど動かされにくくなるとされる。だから苦しみへの対処は、耐えることでも意志で抑え込むことでもなく、その原因を知ることのほうに置かれることになる。
カント
苦しみに意味を与えない。世界が道徳に見合っていないことこそが、来世を要請する根拠になるとされる。出典:カント『実践理性批判』
苦しみに意味を与えない。むしろ、正しく生きた者が報われないという世界の在りようのほうが、解かれないまま問題として残される。カントは、道徳が空しいものにならないためには魂の不死と神を要請せざるをえないとし、この釣り合わなさを、その要請の根拠のほうに用いている。順序が逆になる。
ハイデガー
苦しみを主題としない。ただし不安を、世界のなかで在ることが露わになる場面として重く扱っている。出典:ハイデガー『存在と時間』第40節(不安)
苦しみそのものを主題としては扱わない。ただし不安については、何か特定のものへの恐れとはっきり区別して論じている。恐れには対象があるが、不安には対象が無い。その対象の無さによって、世界のなかに在ることそれ自体が露わになるとされ、取り除くべきものではない位置が与えられている。
実存主義
(サルトル・カミュ)
苦しみに、あらかじめ与えられた意味はないとされる。カミュは、それでも生きることのほうを問うた。出典:カミュ『シーシュポスの神話』1942年
苦しみに、あらかじめ与えられた意味はないとされる。世界の側は説明を返さないのに、人の側は説明を求め続ける。カミュはその食い違いのほうを不条理と呼び、説明を作り出すことでも、生を終わらせることでもなく、食い違いをそのまま抱えて生きることのほうを問うている。解消は目指されない。
心理学
ユング
苦しみを取り除くべきものとしてだけ扱わない。心が向きを変えるときに現れるものとしても見ている。出典:ユング「心理療法と牧会の関係について」1932年(『心理学と宗教』村本詔司訳・人文書院)
苦しみを、取り除くべきものとしてだけ扱うことをしない。心が向きを変えようとするときにも苦しみは現れるとされ、症状が消えることと、その人が変わることとは同じではないと見る。牧会との関係を論じた文章では、宗教がこれまで担ってきた領域との重なりが、正面から指摘されている。
フランクル
苦しみそのものに意味があるとは言わない。避けられない苦しみにどう応えるかに、意味があるとした。出典:フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)
苦しみそのものに意味があるとは言わない。避けられない苦しみに対して、どう応えるかのほうに意味があるとする。だから問いの向きそのものが入れ替えられることになる。人生の意味を問う側ではなく、人生から問われている側に自分を置き直す、という形で語られる。答えるのは生きている側になる。
科学
神経科学
痛みが生じる仕組みは扱うが、なぜ苦しみがあるのかという目的の形の問いは立てていない。扱うのは仕組みである。出典:国際疼痛学会による痛みの定義 2020年改訂
痛みが生じる仕組みは扱うが、なぜ苦しみがあるのかという目的を問う形の問いは立てない。国際疼痛学会の定義は、痛みを組織の損傷と結びついた不快な経験としたうえで、損傷が無くても痛みは生じうるとしている。扱われているのは、あくまで経路とその条件のほうで、意味には踏み込まない。
進化生物学
痛みは、危険を避けるための信号として説明される。目的があるとも無いとも述べずに、過程が記述される。出典:マイア「生物学における原因と結果」1961年
痛みは、危険を避けるための信号として説明される。目的があるかどうかは述べられず、その形質が集団に残ってきた過程のほうが記述される。マイアは、なぜという問いには至近の要因と究極の要因という二つの水準があるとし、両者を混同しないことを求めた。問いの側を分けることが先になる。
宇宙論
この問いを扱う枠組みを持たない。物質とエネルギーを記述する理論で、苦しみを語る語彙を持っていない。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
この問いを扱うための枠組みを、そもそも持たない。宇宙の組成と膨張の歴史を数値で記述する理論であり、苦しみを表す量が式のどこにも現れてこない。答えを避けているのではなく、答えるための語彙を持っていないという位置にこの立場は立っている。沈黙は結論ではなく、範囲の外にある。
量子力学
この問いに答えを持たない。粒子の振る舞いを記述する理論であり、苦しみを扱うための枠組みではない。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
この問いに答えを持たない。粒子の振る舞いと測定の結果を確率として記述する理論であり、苦しみを扱うための枠組みではない。教科書は状態と観測量の関係を定めるところから始まっており、そこに人の経験を置くための場所は、はじめから用意されていない。援用は理論の側の主張ではない。
現代の言説
神智学
苦しみは、魂が経験を重ねて進んでいくための過程として説明された。前の生の行いと結びつけて語られる。出典:神智学協会(1875年創設)
苦しみは、魂が生を重ねて進んでいくための過程として説明された。前の生の行いと結びつけて語られ、偶然に降りかかったものではないとされる。仏教やヒンドゥーの語を取り入れながら、それらを進歩という枠組みへ組み替えた点に、この体系の性格がよく表れている。上りの向きが加えられている。
現代スピリチュアル
苦しみを、魂が自ら選んだ学びとして受け取る語り方が多い。語り手ごとに内容は大きく異なっている。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
苦しみを、魂が生まれる前に自ら選んできた学びとして受け取る語り方が広く用いられる。選んだのだから被害ではない、という形で受け取り方のほうが変えられることになる。教典による裏づけを持たず、語り手ごとに内容が大きく異なるため、ここでは個別に出典を添えて扱うことにしている。
臨死体験の研究
報告に、苦しみの意味を示されたという語りが含まれる。解釈は研究者のあいだで分かれたままである。出典:ムーディ『Life After Life』1975
報告のなかに、苦しみの意味を示されたという語りが繰り返し現れる。そのこと自体は、記録として確かめることができる。ただし、それが死後の世界を示しているのか、脳の働きによるものなのかについては、研究者のあいだで解釈が分かれたままになっている。記録と解釈が切り離されている。
信仰を持たない立場
唯物論・無神論
苦しみに理由はないとされる。誰かが与えたものではなく、世界にそう仕組まれているのでもないとされる。出典:ドーキンス『遺伝子の川』第4章「神の効用関数」(垂水雄二訳・草思社1995年)
苦しみに理由はないとされる。誰かが与えたのでもなく、世界がそう仕組まれているのでもない。ドーキンスは、自然には設計も配慮もなく、そこにあるのは無関心だけだと述べた。理由を探すという行いそのものが、世界に無いものを求めていることになるという形で、問い自体が退けられる。
02

どこで割れているか

一つめ 原因は外にあるのか、自分にあるのか

一神教は、苦しみを与えられたものとして受け取ります。試練であり、自由の代償であり、意味は現世で完結しないとされます。インドに始まる系統は、自分の行いが返ってきたものとします。誰の意図でもありません。同じ「理由がある」でも、原因の置き場所が正反対です。

二つめ 取り除くのか、受け取るのか

仏教とエピクロスとストア派は、苦しみを減らせるものとして扱います。原因を特定し、それを断てば苦も減るという構えです。一方でスーフィズム・カトリック・ユングは、苦しみを通り抜けるものとして扱います。削られること自体に意味が置かれます。

三つめ 答えを与えない、という答え方

ヨブ記では、神はつむじ風のなかから語りかけますが、ヨブの問いには答えず、逆に問い返します。プロテスタントは人が知り尽くすことはできないとし、儒教は起源を論じず、禅は問いの構えのほうを戻します。答えないことが、この問いでは一つの立場になっています。

03

原典に降りる

これが苦である。これが苦の生起である。これが苦の滅である。これが苦の滅に至る道である。 四諦(初転法輪で説かれたとされる四つの真理)/趣意

苦しみが在ることを、まず認めるところから始まります。原因は渇きに求められ、断てば尽きるとされます。

わたしが地の基を据えたとき、あなたはどこにいたのか。 ヨブ記 38章(つむじ風のなかから)/趣意

ヨブは苦しみの理由を問い続けましたが、返ってきたのは答えではなく問いでした。最後まで説明は与えられません。

04

出典の確認状況

どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。

出典使った箇所状況
四諦(苦・集・滅・道)/初転法輪01・03節四つの内訳を確認
ヨブ記 38章(つむじ風のなかから問い返す)01・03節章と構造を確認
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』01節照会済
ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』01節照会済
『倶舎論』破我品に引かれた説01節照会済
世親『唯識三十頌』/護法釈『成唯識論』01節照会済
親鸞『教行信証』01節照会済
『グル・グラント・サーヒブ』01節照会済
『荘子』斉物論篇01節照会済
『古事記』上巻01節照会済
カバラー文献(器の破れ)01節照会済
エピクロス『メノイケウス宛書簡』01節照会済
スピノザ『エチカ』第三部・第五部01節照会済
カント『実践理性批判』01節照会済
神智学協会(1875年創設)01節照会済
ムーディ『Life After Life』197501節照会済
世親『阿毘達磨倶舎論』業品(世別由業生)01節照会済
道元『弁道話』1231年01節照会済
ロジョン(心の訓練法)のトンレン01節照会済
唯円編『歎異抄』第三条01節原文を確認
『論語』為政篇 第4章(五十而知天命)01節原文を確認
祓の儀礼/柳田国男『先祖の話』1946年01節照会済
『カトリック教会のカテキズム』309〜314/エイレナイオス『異端反駁』第四巻37〜39章01節原文を確認
クルアーン 2章155節ほか01節原文を確認
『ズィヤーラト・アーシューラー』(イブン・クーラワイフ『カーミル・アッ・ズィヤーラート』所収)01節照会済
ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』01節照会済
プラトン『パイドン』82e〜83a01節原文を確認
エピクテトス『提要』第5章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻2301節原文を確認
デカルト『情念論』1649年01節照会済
ハイデガー『存在と時間』第40節(不安)01節照会済
カミュ『シーシュポスの神話』1942年01節照会済
ユング「心理療法と牧会の関係について」1932年(『心理学と宗教』村本詔司訳・人文書院)/フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)01節章まで特定
マイア「生物学における原因と結果」1961年/プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年/サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節01節掲載誌・版元を確認
国際疼痛学会による痛みの定義 2020年改訂01節改訂年を確認
ドーキンス『遺伝子の川』第4章「神の効用関数」(垂水雄二訳・草思社1995年)01節章まで特定
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」(刊行年と版元をつけた一覧)01節系譜のページに集約
ヴィタル『エツ・ハイム』第9門「器の破れの門」01節章節を特定
ウパニシャッド01節章節を特定
『バガヴァッド・ギーター』01節章節を特定
世親『唯識三十頌』(玄奘訳)01節章節を特定
ヨブ記 38章(つむじ風のなかから)01節章節を特定
新約聖書01節章節を特定
カルヴァン『キリスト教綱要』1536年01節章節を特定
『ズィヤーラト・アーシューラー』(『カーミル・アッ・ズィヤーラート』所収)01節章節を特定