この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
魂が不死であることは、知識として証明も反証もできないとする。ただし道徳が成り立つためには要請せざるをえない、という位置に置かれる。出典:『実践理性批判』純粋実践理性の弁証論
知りうることの外にあるとして退ける。死者との交信を語る当時の言説を、一冊を割いて批判的に検討している。出典:カント『視霊者の夢』1766年(正式名『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』)
魂の先在も不死も、理論としては知りえないとした。仮説として持ち出すことはあっても主張はしない。出典:カント『純粋理性批判』純粋理性の誤謬推理(A341/B399以下)
名声を得ることからは、道徳の基準は出てこないとした。動機の形式のほうが、正面から問われている。出典:カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:421)
祈りを、神を動かす手段としては認めない。道徳的な心構えを整えるはたらきとして位置づけ直している。出典:カント『実践理性批判』
起源は知りうることの外に置かれる。経験を成り立たせている側の私は、知られる対象にはならないとされる。出典:カント『純粋理性批判』B131〜132(超越論的統覚)
人格のうちの人間性を、手段としてだけ扱ってはならないとした。常に同時に目的として扱えと説く。出典:カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:429)
自然の因果と自由は、どちらも成り立つと論じた。二つが衝突して見えるのは、次元が違うからだとされる。出典:カント『純粋理性批判』第三アンチノミー(A444/B472)
知りうることの外にあるとして退ける。魂の不死は道徳が成り立つための要請として置くが、繰り返しの形では置いていない。出典:カント『実践理性批判』純粋実践理性の弁証論
欲を満たすことからは、道徳の基準は出てこないとした。基準の形式のほうが、正面から問われている。出典:カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:421)
経験される私と、経験を成り立たせている私とを分けた。後者のほうは、知られる対象にはならないとされる。出典:カント『純粋理性批判』B131〜132(超越論的統覚)
神が在ることは証明も反証もできないとした。ただし道徳が成り立つためには要請せざるをえないとされる。出典:カント『純粋理性批判』超越論的弁証論/『実践理性批判』
幸せを道徳の目的とはしない。問われるのは、幸福に値する者であるかどうかのほうである。値することのほうが先に来る。出典:カント『実践理性批判』
生きることは、自分と他者を目的として扱うことだとされる。幸福ではなく、それに値することが問われる。出典:カント『道徳形而上学の基礎づけ』
時間と空間は世界の側の性質ではなく、人が世界を受け取る形式だとした。物自体は知りえないとされる。出典:カント『純粋理性批判』(超越論的感性論)
成功を、道徳の基準としない。結果ではなく、どの原則に従って行ったかのほうが問われる。従った原則のほうが問われる。出典:カント『実践理性批判』
時間は世界の側の性質ではなく、人が受け取るときの形式であるとした。問いの向きが入れ替えられている。出典:カント『純粋理性批判』A30〜32/B46〜49(超越論的感性論)
時間と空間は世界の側の性質ではなく、人が世界を受け取る形式だとした。問いの向きを変えている。問う側が問い直される。出典:カント『純粋理性批判』(超越論的感性論)
知りうることの外にあるとして、場所としての描写を退ける。来世は、道徳が成り立つための要請として置かれるにとどまる。出典:カント『実践理性批判』/『視霊者の夢』1766年
その基準が誰にでも当てはまる法則になりうるかを問えとした。結果ではなく、その形式のほうが基準になる。出典:カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:421)
目的は知りうることの外にある。ただし人が自分と他者を目的として扱うべきことは、理性の側から導かれるとされる。出典:カント『道徳形而上学の基礎づけ』第二章(Ak. 4:429)
苦しみに意味を与えない。世界が道徳に見合っていないことこそが、来世を要請する根拠になるとされる。出典:カント『実践理性批判』