この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
人は宇宙を貫く理法の一部であり、死によって全体へ還る。避けられない自然の出来事として受け入れることが説かれる。出典:エピクテトス『語録』3巻24章92〜94節(死は変化であって滅びではない)/『自省録』
死は全体へ還ることであり、個として残る相手がいない。遺された者に説かれるのは、受け入れることのほうである。出典:エピクテトス『語録』3巻24章27節・87〜88節(権内にないもの)/『自省録』
宇宙は焼き尽くされてまた始まり、同じ順序を繰り返すとされた。個の先在としては説かれていない。出典:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻141〜142節
記憶する者もまた死に、その後継者も死ぬとされる。死後の名声は、そこで絶えることになると説く。出典:マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻19
出来事は理法によって定まるとされる。祈るとすれば、それを受け取る自分の構えのほうに向けられる。出典:エピクテトス『提要』第1章
宇宙を貫く理法の一部が、人のうちにも働いているとされる。個の心も、その全体の側から捉えられる。出典:エピクテトス『提要』第1章
すべての人が同じ理法を分けもつとされる。他者もまた、その全体に属する者として受け取られている。出典:マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23
押された円筒は転がるが、転がる性質は押した者が与えたのではない。同意はわれわれの側にあるとされる。出典:キケロ『運命について』42〜43節(クリュシッポスの円筒)
個の生まれ変わりは説かない。ただし世界そのものが焼き尽くされ、同じ順序で繰り返すという考えは古くから語られてきた。出典:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻141〜142節
欲望は四つの情念の一つとして分類される。権内にないものを欲すれば必ず失望する、と説かれている。出典:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻110〜113節/エピクテトス『提要』第2章
自分の力の及ぶ範囲だけが、本当に私のものだとされる。それ以外は預かりものとして扱うことが説かれる。出典:エピクテトス『語録』3巻1章39〜40節(私とはプロハイレシス)/『自省録』
宇宙を貫く理法そのものを神と呼ぶ。外から世界を造る者ではなく、世界に行き渡るものとして語られる。出典:マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23/エピクテトス『提要』第1章
幸せは、自分の力の及ぶものだけを問題にすることだとされる。外のことは幸不幸を決めない。外のことは幸不幸に関わらない。出典:エピクテトス『提要』第1章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23
生きることは、自然に従い、自分の力の及ぶ範囲を引き受けることだとされる。役を果たすことになる。役は選べないこともある。出典:エピクテトス『提要』第1章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23
世界は理法に貫かれて在るとされる。変えられるのは外の事柄ではなく、それについての判断のほうである。出典:エピクテトス『提要』第5章
成功は、自分の力の及ぶ範囲でよく振る舞えたかで決まる。結果そのものは自分のものではない。結果は自分のものではない。出典:エピクテトス『提要』第1章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23
宇宙は焼き尽くされ、また同じ順序で始まるとされた。時は円を描いて繰り返すものとして語られる。出典:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻141〜142節
宇宙は一つの生きた全体であり、理法に貫かれているとされる。焼き尽くされ、また始まるとされた。周期は繰り返し語られる。出典:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻141〜142節
死後の場所を説かない。人は宇宙の全体へ還るのであって、どこかへ赴くのではないとされる。行き先を問うこと自体が退けられる。出典:エピクテトス『語録』3巻13章14〜15節(ハデスもアケロンも無い)/『自省録』
善は徳のみだとされる。生命も健康も富も、善でも悪でもない中間のものとして分類されることになる。出典:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻101〜103節
個人のための理由はない。宇宙を貫く理法のはたらきの一部として生じ、与えられた役を引き受けることが説かれる。出典:エピクテトス『語録』3巻24章94節・2巻5章13節(全体の一部分)/『自省録』
苦しみは出来事そのものではなく、それについての判断から生じるとされる。判断のほうは変えられる。出典:エピクテトス『提要』第5章/マルクス・アウレリウス『自省録』第四巻23