この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
魂が繰り返し生まれ変わる(ギルグル)という考えが説かれた。十六世紀のツファットで、この主題が神秘思想の中心に置かれた。出典:『セフェル・ハ・バヒル』195節/ヴィタル『シャアル・ハ・ギルグリーム』(16世紀・ツファット)
魂が繰り返し生まれ変わるという枠組みのなかで、生者の行いが先立った魂の行方に関わりうるとされ、祈りに意味が置かれる。出典:『ゾーハル』サバ・デ・ミシュパティーム(II 94b〜114a)
すべての魂は転生に入ると述べられる。義人に禍が起こる理由を、前の生から説明する形が取られる。出典:『ゾーハル』ミシュパティーム篇/『セフェル・ハ・バヒル』195
同じ教えを受け取りながら、名を残す行いが上の世界にも及ぶという枠組みのなかに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
祈りは、下から上へ働きかけるものとして語られる。人の行いが上の世界に及ぶという枠組みが置かれている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
魂はいくつもの段階をなすとされ、より高い層から順に降りてくるという枠組みのなかに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
同じ教えを受け取りながら、人と人のあいだの行いが上の世界にも及ぶという枠組みに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
同じ枠組みを受け取りながら、人の行いが上の世界に働きかけるという構えのなかに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
説かれる。魂が果たすべきことを果たすまで繰り返し戻るとされ、十六世紀のツファットで中心に据えられた。出典:『セフェル・ハ・バヒル』195節/ヴィタル『シャアル・ハ・ギルグリーム』(16世紀・ツファット)
同じ枠組みを受け取りながら、食べることや営みを、上の世界へ働きかける行いとして捉え直している。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
魂は段階に分かれ、上の段ほど神に近いとされる。私は、その階梯のどこまでが開いているかとして語られる。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
神そのものは限りがなく、知りえないとされる。世界に現れる十の面を通してのみ語りうると説かれてきた。出典:アズリエル・デ・ヘローナ『十のセフィロートの解説』(13世紀)
幸せは、魂が本来の場所へ近づくことに伴うとされる。段階を上るにつれて深まるとされている。段階として描かれていくことになる。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
生きることは、割れた器を修復する働きに加わることだとされる。日常の行いが、そのままそこに結ばれていく。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第10門「修復の門」
世界は神の光が段階を経て現れたものとされる。人の側の行いが、その現れに関わるとも語られてきた。出典:『セフェル・ハ・バヒル』(12世紀後半)/『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
成し遂げるとは、割れた器の修復に加われたかどうかとされる。世の成果とは別の尺度になる。世の成果とは別の尺度になる。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第10門「修復の門」
同じ枠組みを受け取りながら、光が段階を経て現れていく過程として、時の広がりが捉え直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
神が身を退いて場を空け、そこに光が流れ込んで世界ができたと説かれる。段階を経て現れるとされる。世界は、いきなり現れるのではない。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第1門「円と直線の講」(ツィムツーム)
場所というより、魂が置かれる段階として描かれる。上と下は位置ではなく、神への近さの度合いを指す言葉になっている。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
同じ戒律を受け取りながら、一つ一つの行いが上の世界に働きかけるという枠組みのなかに置き直している。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
魂が果たすべきことを果たすために降りてくるとされる。果たし終えるまで繰り返し戻ると説かれ、生は課された務めとして捉えられる。出典:ヴィタル『シャアル・ハ・ギルグリーム』(16世紀・ツファット)
苦しみは、神が身を退いたときに器が割れたことから生じたと説かれる。その修復に人も加わるとされる。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第9門「器の破れの門」