同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
魂が繰り返し生まれ変わる(ギルグル)という考えが説かれた。十六世紀のツファットで、この主題が神秘思想の中心に置かれた。出典:『セフェル・ハ・バヒル』195節/ヴィタル『シャアル・ハ・ギルグリーム』(16世紀・ツファット)
終わりの日に死者が起こされ、来るべき世(オラム・ハバー)が来ると語られる。ただし死後の状態そのものの描写には踏み込まない傾向が強い。出典:ダニエル書 12:2/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
魂が繰り返し生まれ変わるという枠組みのなかで、生者の行いが先立った魂の行方に関わりうるとされ、祈りに意味が置かれる。出典:『ゾーハル』サバ・デ・ミシュパティーム(II 94b〜114a)
遺された者が定められた祈りを唱える。その言葉は神を讃えるもので、埋葬のとき以外は死者に触れない。務めは遺された側にある。出典:カディッシュ/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
すべての魂は転生に入ると述べられる。義人に禍が起こる理由を、前の生から説明する形が取られる。出典:『ゾーハル』ミシュパティーム篇/『セフェル・ハ・バヒル』195
魂の貯蔵庫にある魂が尽きるまで、メシアは来ないと語られる。生まれる前の魂を想わせる伝えである。出典:バビロニア・タルムード イェバモート篇62a
同じ教えを受け取りながら、名を残す行いが上の世界にも及ぶという枠組みのなかに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
良き名の冠は、他のどの冠にも勝るとされる。義人の記憶は祝福となる、という句も伝えられてきた。出典:『ピルケイ・アボット』4章13節/箴言 10章7節
祈りは、下から上へ働きかけるものとして語られる。人の行いが上の世界に及ぶという枠組みが置かれている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
朝・午後・夕の定時の祈りが定められている。神殿が失われたのち、犠牲に代わるものとして位置づけられてきた。出典:ミシュナ『ベラホート篇』4章1節/バビロニア・タルムード ベラホート26b
魂はいくつもの段階をなすとされ、より高い層から順に降りてくるという枠組みのなかに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
魂は神から与えられたものとされる。人が造られたときに息を吹き入れられた、という記述が土台に置かれる。出典:創世記 2章7節
同じ教えを受け取りながら、人と人のあいだの行いが上の世界にも及ぶという枠組みに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
自分にとって憎むべきことを隣人にするな。これがトーラーの全体で、残りは注解だと語られている。出典:バビロニア・タルムード シャバット篇31a(ヒレル)
同じ枠組みを受け取りながら、人の行いが上の世界に働きかけるという構えのなかに置き直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
すべては見通されているが、選ぶ自由は与えられている、と語られる。両方を同時に立てる形をとっている。出典:ミシュナ『アヴォート篇』3章15節
説かれる。魂が果たすべきことを果たすまで繰り返し戻るとされ、十六世紀のツファットで中心に据えられた。出典:『セフェル・ハ・バヒル』195節/ヴィタル『シャアル・ハ・ギルグリーム』(16世紀・ツファット)
説かれない。生は一度きりのものとされ、繰り返しではなく、終わりの日に死者が起こされることのほうが置かれている。出典:ダニエル書 12:2/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
同じ枠組みを受け取りながら、食べることや営みを、上の世界へ働きかける行いとして捉え直している。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
許されたのに味わわなかったものについて、申し開きをすることになると語られる。享受は退けられない。出典:エルサレム・タルムード キドゥシン篇4章12節
魂は段階に分かれ、上の段ほど神に近いとされる。私は、その階梯のどこまでが開いているかとして語られる。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
私は神に造られた一人であり、名を呼ばれる相手として立つ。身体から切り離された魂としては描かれていない。出典:創世記/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
神そのものは限りがなく、知りえないとされる。世界に現れる十の面を通してのみ語りうると説かれてきた。出典:アズリエル・デ・ヘローナ『十のセフィロートの解説』(13世紀)
神は一つで、像を作ることが禁じられている。名をみだりに呼ばず、契約を結ぶ相手として語られてきた。出典:出エジプト記 20章(十戒)
幸せは、魂が本来の場所へ近づくことに伴うとされる。段階を上るにつれて深まるとされている。段階として描かれていくことになる。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
幸せは、律法に従って生きる日々のうちに置かれる。この世を離れたところには求められない。この世のうちに置かれている。出典:トーラー/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
生きることは、割れた器を修復する働きに加わることだとされる。日常の行いが、そのままそこに結ばれていく。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第10門「修復の門」
生きることは、律法に従って日々を営むことだとされる。世を離れず、この世で果たすものとされている。出典:トーラー/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
世界は神の光が段階を経て現れたものとされる。人の側の行いが、その現れに関わるとも語られてきた。出典:『セフェル・ハ・バヒル』(12世紀後半)/『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
世界は神が造ったものとされる。人の心が作るのではなく、造られたものとしてはっきり区別されている。出典:創世記 1章3節
成し遂げるとは、割れた器の修復に加われたかどうかとされる。世の成果とは別の尺度になる。世の成果とは別の尺度になる。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第10門「修復の門」
成功は、律法に従って生きられたかで測られる。富そのものは、否定も肯定もされていない。富は中立に置かれている。出典:トーラー/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
同じ枠組みを受け取りながら、光が段階を経て現れていく過程として、時の広がりが捉え直されている。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
世界にはじまりが置かれる。時は造られたものの側にあり、造った者と同じ列には並べられていない。出典:創世記 1章1節
神が身を退いて場を空け、そこに光が流れ込んで世界ができたと説かれる。段階を経て現れるとされる。世界は、いきなり現れるのではない。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第1門「円と直線の講」(ツィムツーム)
神が言葉によって世界を造ったとされる。世界は神ではなく、造られたものとしてはっきりと区別される。出典:創世記 1章3節
場所というより、魂が置かれる段階として描かれる。上と下は位置ではなく、神への近さの度合いを指す言葉になっている。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
古い層では、善人も悪人も等しく降りる陰の場所が語られる。賞罰は結びつけられず、来るべき世は後の時代に置かれる。出典:シェオル(ヘブライ語聖書に65回)/来るべき世
同じ戒律を受け取りながら、一つ一つの行いが上の世界に働きかけるという枠組みのなかに置き直している。出典:『ゾーハル』(1280年代・邦訳 法政大学出版局2012年)
戒律は六百十三と数えられてきた。ヒレルは、自分に忌まわしいことを人にするなの一語に全体を要約している。出典:バビロニア・タルムード マッコート篇23b/シャバット篇31a
魂が果たすべきことを果たすために降りてくるとされる。果たし終えるまで繰り返し戻ると説かれ、生は課された務めとして捉えられる。出典:ヴィタル『シャアル・ハ・ギルグリーム』(16世紀・ツファット)
神が意図をもって創った。人は神のかたちに造られた存在として、律法に従って生きるためにこの世にあるとされる。出典:創世記 1:27
苦しみは、神が身を退いたときに器が割れたことから生じたと説かれる。その修復に人も加わるとされる。出典:ヴィタル『エツ・ハイム』第9門「器の破れの門」
ヨブ記は、正しい者がなぜ苦しむのかを正面から問う。神は答えを与えず、逆にヨブへ問い返している。出典:ヨブ記 38章(つむじ風のなかから)