この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
死後に清めを経るという過程は認めない。人が義とされるのは信仰によるとし、復活は終わりの日にまとめて起きるとされる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節
死者のための祈りや取り次ぎを退ける。人と神のあいだに仲介を置かないという原則が、死者との関わりにも及んでいる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年/新約聖書
同じく創られたものとする。人が自分の始まりを知り尽くせるとは、そもそも考えられていないことになる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
名声を功績とはしない。置かれた場所で務めを果たすことのほうが、召しに応えることとして説かれる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
祈りは信仰の不断の訓練だとされる。神の意にかなうことを求める姿勢が、規則として説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十章
同じく神から与えられたものとされる。人がそれを自力で説明しきれるとは、そもそも考えられていない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
同じ戒めを受け取る。そのうえで、置かれた場所で務めを果たすことが、隣人への奉仕として説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
永遠の決議によって、あらかじめ定められているとされる。人の側の功績によるのではないと説かれる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十一章 第5節
認めない。一度きりの生と、終わりの日の復活を置く。死後に清めを経る過程も、繰り返しも、どちらも認めない立場をとる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節
禁欲そのものを功績とはしない。与えられた場所で務めを果たすことのほうが、召しとして説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
私は神の前に立つ一人であり、その関係のうちで定まる。仲介を置かず、直接に問われる相手として立たされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
同じ三位一体を立てる。人と神のあいだに仲介を置かず、聖書を通して直接に関わるという形が取られる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
幸せは、行いの報いとしてではなく、恵みとして受け取られる。取引としては置かれていない。行いの対価としては置かれない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
生きることは、置かれた場所で務めを果たすことだとされる。職業そのものが召しとして受け取られる。場所は選ばれるものではない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年(職業召命観)
同じく無からの創造を立てる。世界は神の栄光を映すものとされ、人の心が作り出すものとはされていない。出典:創世記 1章3節/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
職業に励むことは召しに応えることとされる。ただし救いを買うものではないと戒められている。救いを買うものではない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
同じく造られたものとする。人が時の全体を見渡すことはできないという前提が、はっきり置かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
同じく無からの創造を立てる。世界は神の栄光を映すものとして受け取られ、それ自体は神ではない。映すことと在ることは別である。出典:創世記 1章3節/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
天国と地獄を認め、清めの状態は置かない。場所の描写よりも、神との関係があるかどうかのほうに重心が置かれている。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
行いによって義とされるのではないとされる。そのうえで、置かれた場所で務めを果たすことが召しとされる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
神の創造による。人は自らの功によってではなく、ただ神の恵みによってこの世に置かれているとされ、そこに理由が求められる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
苦しみの理由を人が知り尽くすことはできないとする。そのうえで、神への信頼のほうが問われるとされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年