比較 / 西アジアに始まる一神教

キリスト教(カトリック)とキリスト教(プロテスタント)

同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。

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問いごとに並べる(22件)

死んだらどうなるのか

キリスト教(カトリック)

死の直後に一人ひとりの裁きがあり、なお清めを要する者はその過程を経る。そして終わりの日に、身体を伴って復活するとされる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節/『カトリック教会のカテキズム』990・1030〜1032

キリスト教(プロテスタント)

死後に清めを経るという過程は認めない。人が義とされるのは信仰によるとし、復活は終わりの日にまとめて起きるとされる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節

死者と生者はつながれるのか

キリスト教(カトリック)

生者と死者は一つの交わりのうちにあるとされ、死者のための祈りが営まれる。聖なる人々への取り次ぎを願うことも認められる。出典:聖徒の交わり(旧訳・諸聖人の通功)/第二マカバイ記 12:45

キリスト教(プロテスタント)

死者のための祈りや取り次ぎを退ける。人と神のあいだに仲介を置かないという原則が、死者との関わりにも及んでいる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年/新約聖書

生まれる前の私はいたのか

キリスト教(カトリック)

魂は神によって直接に創られるとされる。親から生み出されるのでも、前から在ったのでもないとされる。出典:『カトリック教会のカテキズム』366/ブラガ教会会議561年 第6条

キリスト教(プロテスタント)

同じく創られたものとする。人が自分の始まりを知り尽くせるとは、そもそも考えられていないことになる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

名を残すことに意味はあるのか

キリスト教(カトリック)

施しを人に見せるなと説かれる。人に見られて得た評価は、すでに報いを受け取ったものだとされる。出典:マタイ6章1〜4節/コリントの信徒への手紙一 4章5節

キリスト教(プロテスタント)

名声を功績とはしない。置かれた場所で務めを果たすことのほうが、召しに応えることとして説かれる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

祈りは届くのか

キリスト教(カトリック)

主の祈りが型として与えられている。聞き入れられないときは、求め方のほうが問い直されると説明される。出典:マタイ6章9〜13節/『カトリック教会のカテキズム』2734〜2741

キリスト教(プロテスタント)

祈りは信仰の不断の訓練だとされる。神の意にかなうことを求める姿勢が、規則として説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十章

意識はどこから来るのか

キリスト教(カトリック)

魂は神によって直接に創られるとされる。親から受け継ぐものではないと、はっきり区別されている。出典:『カトリック教会のカテキズム』362〜365

キリスト教(プロテスタント)

同じく神から与えられたものとされる。人がそれを自力で説明しきれるとは、そもそも考えられていない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

他者とどう関わるのか

キリスト教(カトリック)

隣人を自分のように愛せ、が最も大いなる戒めの一つとされる。律法の全体がここにかかると語られている。出典:マタイ22章37〜40節/ルカ10章25〜37節(良きサマリア人)

キリスト教(プロテスタント)

同じ戒めを受け取る。そのうえで、置かれた場所で務めを果たすことが、隣人への奉仕として説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

運命は決まっているのか

キリスト教(カトリック)

自由は与えられたものとされる。恩寵は自由と競い合わず、むしろ自由を育てるものとして説明されている。出典:『カトリック教会のカテキズム』1731〜1742

キリスト教(プロテスタント)

永遠の決議によって、あらかじめ定められているとされる。人の側の功績によるのではないと説かれる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十一章 第5節

生まれ変わりはあるのか

キリスト教(カトリック)

認めない。生は一度きりのものとされ、死の後に一人ひとりの裁きがあると説かれる。やり直す機会は置かれていない。出典:ヘブライ人への手紙 9:27

キリスト教(プロテスタント)

認めない。一度きりの生と、終わりの日の復活を置く。死後に清めを経る過程も、繰り返しも、どちらも認めない立場をとる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節

欲は満たすべきか、減らすべきか

キリスト教(カトリック)

節制が四つの枢要徳の一つに数えられる。快を否定するのではなく、程よさに保つことが説かれている。出典:『カトリック教会のカテキズム』1809・1866(七つの罪源)

キリスト教(プロテスタント)

禁欲そのものを功績とはしない。与えられた場所で務めを果たすことのほうが、召しとして説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

私とは何か

キリスト教(カトリック)

人は身体と魂からなる一つの存在とされる。魂だけが本当の私だとはされず、終わりの日に身体を伴って復活する。出典:『カトリック教会のカテキズム』362〜365・990

キリスト教(プロテスタント)

私は神の前に立つ一人であり、その関係のうちで定まる。仲介を置かず、直接に問われる相手として立たされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

神とは何か

キリスト教(カトリック)

一つの神が三つの位格として在るとされる。そのうちの子が人となったことが、教えの中心に置かれている。出典:ニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)

キリスト教(プロテスタント)

同じ三位一体を立てる。人と神のあいだに仲介を置かず、聖書を通して直接に関わるという形が取られる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

幸せとは何か

キリスト教(カトリック)

人の心は神のうちにしか安らがないとされる。地上の善は、そこへ向かう途上に置かれている。途上であることが前提になる。出典:アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』1718

キリスト教(プロテスタント)

幸せは、行いの報いとしてではなく、恵みとして受け取られる。取引としては置かれていない。行いの対価としては置かれない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

生きるとは何か

キリスト教(カトリック)

生きることは、神との交わりのうちに歩むことだとされる。隣人への愛が、その具体的な形になる。愛は行いのなかで確かめられる。出典:新約聖書/カトリック教会のカテキズム

キリスト教(プロテスタント)

生きることは、置かれた場所で務めを果たすことだとされる。職業そのものが召しとして受け取られる。場所は選ばれるものではない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年(職業召命観)

現実は心が作るのか

キリスト教(カトリック)

世界は神が無から造ったものとされる。心が作るのではなく、人もまた造られた側に置かれることになる。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298

キリスト教(プロテスタント)

同じく無からの創造を立てる。世界は神の栄光を映すものとされ、人の心が作り出すものとはされていない。出典:創世記 1章3節/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

成功とは何か

キリスト教(カトリック)

地上の成功は目的ではないとされる。神との交わりと、隣人への愛のほうが問われることになる。地上の達成は目的にならない。出典:アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』1718

キリスト教(プロテスタント)

職業に励むことは召しに応えることとされる。ただし救いを買うものではないと戒められている。救いを買うものではない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

時間とは何か

キリスト教(カトリック)

時は世界とともに造られたとされる。世界より前に時があったのではない、という形が取られている。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298

キリスト教(プロテスタント)

同じく造られたものとする。人が時の全体を見渡すことはできないという前提が、はっきり置かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

宇宙とは何か

キリスト教(カトリック)

神が無から造ったとされる。世界には始まりがあり、造られたものとして神からはっきり区別される。世界は神と同じものにはならない。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298(無からの創造)

キリスト教(プロテスタント)

同じく無からの創造を立てる。世界は神の栄光を映すものとして受け取られ、それ自体は神ではない。映すことと在ることは別である。出典:創世記 1章3節/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

天国・地獄・浄土はどこにあるのか

キリスト教(カトリック)

天国と地獄に加えて、清めを受ける状態が置かれる。近年の教えでは、場所というより神との関係のありようとして説明される。出典:『カトリック教会のカテキズム』1023〜1037

キリスト教(プロテスタント)

天国と地獄を認め、清めの状態は置かない。場所の描写よりも、神との関係があるかどうかのほうに重心が置かれている。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

善悪はどこで決まるのか

キリスト教(カトリック)

神を愛することと隣人を愛することが、最も大いなる二つの戒めとされる。律法全体がここにかかると語られる。出典:マタイ22章37〜40節/レビ記19章18節

キリスト教(プロテスタント)

行いによって義とされるのではないとされる。そのうえで、置かれた場所で務めを果たすことが召しとされる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

なぜ生まれてくるのか

キリスト教(カトリック)

神が意図して創造した。人は神との交わりのうちに生きるために存在し、その生は繰り返されない一度きりのものとされる。出典:創世記 1:27/ヘブライ人への手紙 9:27

キリスト教(プロテスタント)

神の創造による。人は自らの功によってではなく、ただ神の恵みによってこの世に置かれているとされ、そこに理由が求められる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

なぜ苦しみがあるのか

キリスト教(カトリック)

苦しみは、人に自由が与えられていることの代償として説明される。加えて、キリストの受難と結ばれる。出典:『カトリック教会のカテキズム』309〜314

キリスト教(プロテスタント)

苦しみの理由を人が知り尽くすことはできないとする。そのうえで、神への信頼のほうが問われるとされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年