比較 / 西アジアに始まる一神教

キリスト教(正教)とキリスト教(プロテスタント)

同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。

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問いごとに並べる(22件)

死んだらどうなるのか

キリスト教(正教)

死後の状態を細かく定義せず、神との関わりの深まりとして語る。人が神に似た者へ変えられていく過程の一部として死が置かれる。出典:新約聖書/ギリシア教父(エイレナイオス以降)

キリスト教(プロテスタント)

死後に清めを経るという過程は認めない。人が義とされるのは信仰によるとし、復活は終わりの日にまとめて起きるとされる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節

死者と生者はつながれるのか

キリスト教(正教)

死者のための祈りが定められた形で営まれる。生者と死者を分けず、一つの共同体として捉える見方が保たれている。出典:パニヒダ(ギリシャではパラスタス)/末尾に「永遠の記憶」

キリスト教(プロテスタント)

死者のための祈りや取り次ぎを退ける。人と神のあいだに仲介を置かないという原則が、死者との関わりにも及んでいる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年/新約聖書

生まれる前の私はいたのか

キリスト教(正教)

同じく創られたものとする。加えて、その始まりから神へ近づいていく過程として人の歩みが見られている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

同じく創られたものとする。人が自分の始まりを知り尽くせるとは、そもそも考えられていないことになる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

名を残すことに意味はあるのか

キリスト教(正教)

同じ教えを受け取る。加えて、隠れて行うことが神へ近づいていく過程として受けとめられ続けてきた。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

名声を功績とはしない。置かれた場所で務めを果たすことのほうが、召しに応えることとして説かれる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

祈りは届くのか

キリスト教(正教)

短い祈りを絶えず繰り返す道が伝えられてきた。願うことよりも、名を憶え続けることが重んじられる。出典:ディアドコス『霊的知識と識別についての百章』(『フィロカリア』第1巻所収)

キリスト教(プロテスタント)

祈りは信仰の不断の訓練だとされる。神の意にかなうことを求める姿勢が、規則として説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十章

意識はどこから来るのか

キリスト教(正教)

同じく神から与えられたものとする。加えて、神へ近づいていく過程のなかで捉える見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

同じく神から与えられたものとされる。人がそれを自力で説明しきれるとは、そもそも考えられていない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

他者とどう関わるのか

キリスト教(正教)

同じ戒めを受け取る。加えて、他者に仕えることが神へ近づいていく過程として受けとめられている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

同じ戒めを受け取る。そのうえで、置かれた場所で務めを果たすことが、隣人への奉仕として説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

運命は決まっているのか

キリスト教(正教)

同じく自由を認める。加えて、神へ近づいていく過程として人の歩みを受け取る見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

永遠の決議によって、あらかじめ定められているとされる。人の側の功績によるのではないと説かれる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』第三篇第二十一章 第5節

生まれ変わりはあるのか

キリスト教(正教)

認めない。同じく一度きりの生を前提とし、死後は繰り返しではなく、神との関わりが深まっていく過程として語られる。出典:新約聖書/ギリシア教父(エイレナイオス以降)

キリスト教(プロテスタント)

認めない。一度きりの生と、終わりの日の復活を置く。死後に清めを経る過程も、繰り返しも、どちらも認めない立場をとる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節

欲は満たすべきか、減らすべきか

キリスト教(正教)

同じく節制を重んじる。加えて、断食や祈りを神へ近づいていく過程として受け取る見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

禁欲そのものを功績とはしない。与えられた場所で務めを果たすことのほうが、召しとして説かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

私とは何か

キリスト教(正教)

人は神に似せて造られ、神に似た者へと変えられていく途上にあるとされる。私は完成した何かではなく、過程である。出典:新約聖書/アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)

キリスト教(プロテスタント)

私は神の前に立つ一人であり、その関係のうちで定まる。仲介を置かず、直接に問われる相手として立たされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

神とは何か

キリスト教(正教)

同じ三位一体を立てる。神の本質は知りえず、そのはたらきを通してのみ関われるという区別が保たれる。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

同じ三位一体を立てる。人と神のあいだに仲介を置かず、聖書を通して直接に関わるという形が取られる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

幸せとは何か

キリスト教(正教)

幸せを、神との関わりが深まっていく状態として語る。到達点ではなく、過程として置かれる。終わりは設けられていない。出典:アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)

キリスト教(プロテスタント)

幸せは、行いの報いとしてではなく、恵みとして受け取られる。取引としては置かれていない。行いの対価としては置かれない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

生きるとは何か

キリスト教(正教)

生きることは、神に似た者へと変えられていく過程だとされる。終わりのない歩みとして語られている。完成は先に置かれない。出典:アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)

キリスト教(プロテスタント)

生きることは、置かれた場所で務めを果たすことだとされる。職業そのものが召しとして受け取られる。場所は選ばれるものではない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年(職業召命観)

現実は心が作るのか

キリスト教(正教)

同じく造られたものとする。加えて、世界を神のはたらきの現れとして受け取る見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

同じく無からの創造を立てる。世界は神の栄光を映すものとされ、人の心が作り出すものとはされていない。出典:創世記 1章3節/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

成功とは何か

キリスト教(正教)

成功を到達点として置かない。神に似た者へ変えられていく途上にあるかどうかが問われる。到達点としては置かれない。出典:アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)

キリスト教(プロテスタント)

職業に励むことは召しに応えることとされる。ただし救いを買うものではないと戒められている。救いを買うものではない。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

時間とは何か

キリスト教(正教)

同じく造られたものとする。加えて、神の永遠と人の時とを区別したうえで、両者の関わりが語られる。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

同じく造られたものとする。人が時の全体を見渡すことはできないという前提が、はっきり置かれている。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

宇宙とは何か

キリスト教(正教)

同じく無からの創造を立てる。世界は神のはたらきに貫かれているが、神そのものではないとされる。区別は保たれ続ける。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

同じく無からの創造を立てる。世界は神の栄光を映すものとして受け取られ、それ自体は神ではない。映すことと在ることは別である。出典:創世記 1章3節/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

天国・地獄・浄土はどこにあるのか

キリスト教(正教)

地獄を、死後の場所に限らず、神を愛せないことの苦しみとして語る見方が保たれている。二つの場所を分けて置かない。出典:正教における地獄の理解

キリスト教(プロテスタント)

天国と地獄を認め、清めの状態は置かない。場所の描写よりも、神との関係があるかどうかのほうに重心が置かれている。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

善悪はどこで決まるのか

キリスト教(正教)

同じ二つの戒めを受け取る。加えて、善悪を守ることが神へ近づいていく過程として受けとめられている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)

キリスト教(プロテスタント)

行いによって義とされるのではないとされる。そのうえで、置かれた場所で務めを果たすことが召しとされる。出典:カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

なぜ生まれてくるのか

キリスト教(正教)

同じく神の創造による。人が神に似た者へと変えられていく、その長い過程の始まりとして生が置かれている。出典:新約聖書/ギリシア教父(エイレナイオス以降)

キリスト教(プロテスタント)

神の創造による。人は自らの功によってではなく、ただ神の恵みによってこの世に置かれているとされ、そこに理由が求められる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年

なぜ苦しみがあるのか

キリスト教(正教)

同じく自由に由来するとしたうえで、苦しみを神へ近づいていく過程として受け取る見方が保たれている。出典:エイレナイオス『異端反駁』第四巻37〜39章

キリスト教(プロテスタント)

苦しみの理由を人が知り尽くすことはできないとする。そのうえで、神への信頼のほうが問われるとされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年