この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
見る者としての純粋な精神は、もともと生死に触れていない。生死は物質の側の出来事であり、両者の取り違えが終わったときに解放が起きる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
儀礼や死者との関わりを主題として扱わない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
見る者は始まりを持たず、物質と結びついてきたとされる。その結びつきが解けることが目指されている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
名声は物質の側の現れに属するとされる。見る者そのものは、そこには関わっていないと説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
神への祈りを解脱の道に組み込まない。見る側と見られる側を見分けることのほうが、道として説かれている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
意識は物質から生じないとされる。見る者と、見られるものとを最初から分け、両者の結びつきを跛者と盲者に喩える。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』第17・19〜21偈
他者との関わりを道の中心には置かない。見る者と見られるものを見分けることのほうが説かれている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
物質の側の三つの性質が、どう組み合わさるかによって現れが定まる。見る者そのものは動かされない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』第19偈
微細な身体が残り、それが次の生へ移るとされる。ただし見る者としての精神そのものは、移りも生まれもしない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
欲は物質の側のはたらきに属するとされる。見る者そのものは、そこに巻き込まれていないと説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
見る者としての純粋な精神と、見られる物質とを分ける。私と思われているものの大半は、物質の側に属するとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
創造主を立てない体系として展開した。精神と物質という二つの原理で説明が完結し、造る者を必要としない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
幸せを積極的に定義しない。苦が終わることが目指され、そこに残るものが解放と呼ばれている。積極的な定義は意図して避けられる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
生きることは、精神と物質を見分けていく作業とされる。見分けが終われば、そこで役目は果たされている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
物質は心とは別に、それ自体として在るとされる。見る側と見られる側を分ける立場を、はっきり取っている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
成し遂げるべきは、精神と物質の見分けだけだとされる。世で得たものは、その外に置かれている。世の成果はその外に残る。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
時を独立した実体としては立てない。物質の側に起きる変化として、移り変わりのほうが説明されている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
世界は物質の側が展開したものだとされる。見る者としての精神は、その展開の外に置かれたままである。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
赴く先の地誌を持たない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。関心は解放の仕組みにある。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
善悪を神の定めとしては立てない。三つの性質がどう組み合わさるかによって、行いの質が決まると説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
見る者としての精神と物質とが取り違えられ、その状態が続いているために生じるとされる。外から与えられた目的は置かれない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
苦しみを出発点に置く。精神と物質を取り違えていることが苦の原因であり、見分けがつけば苦は終わるとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)