比較 / インドに始まる系統

ヒンドゥー教(サーンキヤ)とヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。

01

問いごとに並べる(22件)

死んだらどうなるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

見る者としての純粋な精神は、もともと生死に触れていない。生死は物質の側の出来事であり、両者の取り違えが終わったときに解放が起きる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

死によって身体は失われるが、真の自己(アートマン)は滅びず、行為の結果に応じて次の生を受ける。この繰り返しから解き放たれることが目指される。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』

死者と生者はつながれるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ) この問いには答えない

儀礼や死者との関わりを主題として扱わない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

子孫が供物と水を捧げる儀礼が定められており、先祖はそれを受け取るとされる。ただし解脱に至った魂は、その往き来の外に出る。出典:シュラーッダ(祖先供養)/『マヌ法典』(前2世紀〜後2世紀)

生まれる前の私はいたのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

見る者は始まりを持たず、物質と結びついてきたとされる。その結びつきが解けることが目指されている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

私が存在しなかったときはないと語られる。始まりを持たない自己が、身体を替えていくという形が取られる。出典:『バガヴァッド・ギーター』2章12節

名を残すことに意味はあるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

名声は物質の側の現れに属するとされる。見る者そのものは、そこには関わっていないと説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

名は、重ねて見られた側に属するとされる。真の自己は名によって増えも減りもしないと説かれている。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論

祈りは届くのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

神への祈りを解脱の道に組み込まない。見る側と見られる側を見分けることのほうが、道として説かれている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

祈りは真の自己に向かう途上に置かれる。最も高い段階では、祈る者と祈られる者の隔たりが解かれるとされる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7

意識はどこから来るのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

意識は物質から生じないとされる。見る者と、見られるものとを最初から分け、両者の結びつきを跛者と盲者に喩える。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』第17・19〜21偈

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

意識のほうが根本だとされる。身体・生気・心・知の層を順に見ていき、最も内に歓喜の層が置かれている。出典:『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』第2章1〜5節(版により番号が異なる)

他者とどう関わるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

他者との関わりを道の中心には置かない。見る者と見られるものを見分けることのほうが説かれている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

他者もまた同じ根本のものだとされる。分かれて見えることのほうが、重ねて見られた姿だと説かれている。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7

運命は決まっているのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

物質の側の三つの性質が、どう組み合わさるかによって現れが定まる。見る者そのものは動かされない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』第19偈

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

行いの結果は積み重なるが、知ることによって縛りが解けるとされる。決まりきったものとしては置かれない。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論

生まれ変わりはあるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

微細な身体が残り、それが次の生へ移るとされる。ただし見る者としての精神そのものは、移りも生まれもしない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

ある。行いの結果が残り、真の自己があらためて身体を受ける。繰り返しには始まりが無く、終わらせることが目指される。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』

欲は満たすべきか、減らすべきか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

欲は物質の側のはたらきに属するとされる。見る者そのものは、そこに巻き込まれていないと説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

欲そのものを悪とはしない。ただし外へ向かう向きが続くかぎり、覆いは取れないままだと説かれている。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論

私とは何か

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

見る者としての純粋な精神と、見られる物質とを分ける。私と思われているものの大半は、物質の側に属するとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

真の自己は変わらず、世界の根本と一つであるとされる。日常で私と思われているものは、その上に重ねられた覆いとされる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7

神とは何か

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

創造主を立てない体系として展開した。精神と物質という二つの原理で説明が完結し、造る者を必要としない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

世界の根本は一つで、それは真の自己と同じものだとされる。人格を持つ神は、その現れ方の一つとして置かれる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7

幸せとは何か

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

幸せを積極的に定義しない。苦が終わることが目指され、そこに残るものが解放と呼ばれている。積極的な定義は意図して避けられる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

幸せは手に入れるものではなく、本来そうであるものとされる。覆いが取れたときに、おのずと現れる。求める向きが、そもそも逆になる。出典:『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』3章6節/『バガヴァッド・ギーター』2章47節

生きるとは何か

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

生きることは、精神と物質を見分けていく作業とされる。見分けが終われば、そこで役目は果たされている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

生きることは、取り違えを解いて本来の自己に気づいていく過程とされる。目的が外から与えられることはない。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』

現実は心が作るのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

物質は心とは別に、それ自体として在るとされる。見る側と見られる側を分ける立場を、はっきり取っている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

世界は根本のものの現れとされる。心が作るのではなく、無明によって別のものが重ねて見られていると説かれる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章2節1/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論

成功とは何か

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

成し遂げるべきは、精神と物質の見分けだけだとされる。世で得たものは、その外に置かれている。世の成果はその外に残る。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

成功を、外に得たものでは測らない。取り違えが解けて本来の自己に気づくことが目指されている。外の尺度は用いられない。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論/『バガヴァッド・ギーター』2章47節

時間とは何か

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

時を独立した実体としては立てない。物質の側に起きる変化として、移り変わりのほうが説明されている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

時のなかの移り変わりは、根本のものの上に重ねて見られたものとされる。根本の側は時に触れられない。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論

宇宙とは何か

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

世界は物質の側が展開したものだとされる。見る者としての精神は、その展開の外に置かれたままである。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

世界は根本のものが姿を現したものとされる。日常に見える多様さは、その上に重なった現れだと説かれる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章2節1/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論

天国・地獄・浄土はどこにあるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ) この問いには答えない

赴く先の地誌を持たない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。関心は解放の仕組みにある。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

天界も地獄も、行いに応じて赴く一時の滞在先とされる。解脱はそのどこかではなく、往き来そのものの外に置かれる。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』

善悪はどこで決まるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

善悪を神の定めとしては立てない。三つの性質がどう組み合わさるかによって、行いの質が決まると説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

果報を求めずに務めを果たすことが説かれる。最も高い段階では、行いの主体という見方そのものが解かれていく。出典:『バガヴァッド・ギーター』2章47節/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論

なぜ生まれてくるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

見る者としての精神と物質とが取り違えられ、その状態が続いているために生じるとされる。外から与えられた目的は置かれない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

過去の行いの結果として、真の自己があらためて身体を受ける。生まれること自体に目的は置かれず、繰り返しのなかの一場面とされる。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』

なぜ苦しみがあるのか

ヒンドゥー教(サーンキヤ)

苦しみを出発点に置く。精神と物質を取り違えていることが苦の原因であり、見分けがつけば苦は終わるとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

苦しみは過去の行いの結果として受け取られる。本来の自己は苦に触れておらず、取り違えが続くかぎり苦も続く。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』