同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
神への献身によって、死後は輪廻に戻らず神のもとに至るとされる。解脱を自力の悟りとしてではなく、神との関係のうちに置く。出典:『バガヴァッド・ギーター』第十八章ほか
見る者としての純粋な精神は、もともと生死に触れていない。生死は物質の側の出来事であり、両者の取り違えが終わったときに解放が起きる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
死者との関わりよりも、神との関わりが前面に置かれる。神に至った者は神のもとにあり、遺された者も神を通して結ばれる。出典:『バガヴァッド・ギーター』8章5節
儀礼や死者との関わりを主題として扱わない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
同じ枠組みを共有する。加えて、これまでも神との関わりのうちに在ったという受けとめが置かれている。出典:『バガヴァッド・ギーター』9章26節
見る者は始まりを持たず、物質と結びついてきたとされる。その結びつきが解けることが目指されている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
不名誉は死に勝ると語られる箇所と、名誉も不名誉も等しく見よとする箇所が、同じ書のなかにある。出典:『バガヴァッド・ギーター』2章34節/12章18〜19節
名声は物質の側の現れに属するとされる。見る者そのものは、そこには関わっていないと説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
葉でも花でも水でも、愛をもって捧げれば受け取られるとされる。供物の値打ちではなく、捧げる心が問われている。出典:『バガヴァッド・ギーター』9章26節
神への祈りを解脱の道に組み込まない。見る側と見られる側を見分けることのほうが、道として説かれている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
起源を主題としない。神との関わりのなかに置かれているという点のほうが、繰り返し語られてきた。出典:『バガヴァッド・ギーター』9章26節
意識は物質から生じないとされる。見る者と、見られるものとを最初から分け、両者の結びつきを跛者と盲者に喩える。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』第17・19〜21偈
他者への行いも、神に捧げるものとして受け取られる。誰に向けてなされたかが問われることになる。出典:『バガヴァッド・ギーター』9章26節
他者との関わりを道の中心には置かない。見る者と見られるものを見分けることのほうが説かれている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
主はすべての心に宿り、機械に乗せたように動かすと語られる。そのうえで、委ねることが説かれている。出典:『バガヴァッド・ギーター』18章61節
物質の側の三つの性質が、どう組み合わさるかによって現れが定まる。見る者そのものは動かされない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』第19偈
あるとされる。ただし神に至った者は戻らない。繰り返しから出る道が、神への献身という形で示されている。出典:『バガヴァッド・ギーター』
微細な身体が残り、それが次の生へ移るとされる。ただし見る者としての精神そのものは、移りも生まれもしない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
快もまた、人の目的の一つに数えられると説かれる。務めと利益と快の三つが、並べて置かれている。出典:『マヌ法典』2章224節(三つ組)
欲は物質の側のはたらきに属するとされる。見る者そのものは、そこに巻き込まれていないと説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
私は神に属する部分であり、神との関わりのなかで初めて自分になるとされる。独立した個としては置かれていない。出典:『バガヴァッド・ギーター』
見る者としての純粋な精神と、見られる物質とを分ける。私と思われているものの大半は、物質の側に属するとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
神は人格を持ち、名を呼べば応える相手とされる。愛し、愛されるという関係のうちに神が置かれている。出典:『バガヴァッド・ギーター』
創造主を立てない体系として展開した。精神と物質という二つの原理で説明が完結し、造る者を必要としない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
幸せは、神との関わりのうちに与えられるとされる。条件が整うことによって得られるのではない。与える側が先に立っている。出典:『バガヴァッド・ギーター』
幸せを積極的に定義しない。苦が終わることが目指され、そこに残るものが解放と呼ばれている。積極的な定義は意図して避けられる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
生きることは、神との関わりを深めていく道とされる。行いはすべて、神に捧げるものとして置かれる。献身が、そのまま生き方になる。出典:『バガヴァッド・ギーター』
生きることは、精神と物質を見分けていく作業とされる。見分けが終われば、そこで役目は果たされている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
世界は神のものとして在り、人の心が作るのではないとされる。心が向かう相手のほうに、重心が置かれる。出典:『バガヴァッド・ギーター』
物質は心とは別に、それ自体として在るとされる。見る側と見られる側を分ける立場を、はっきり取っている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
成し遂げたことよりも、誰に捧げたかが問われる。結果は神に委ねるべきものとされている。捧げる相手が問われている。出典:『バガヴァッド・ギーター』
成し遂げるべきは、精神と物質の見分けだけだとされる。世で得たものは、その外に置かれている。世の成果はその外に残る。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
四つの時代がめぐり、神々の一日は膨大な年数にわたると語られる。人の一生は、その尺度のなかに置かれる。出典:『マヌ法典』第1章69〜73節(四つのユガ)
時を独立した実体としては立てない。物質の側に起きる変化として、移り変わりのほうが説明されている。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
世界は神の身体であり、神のあらわれだとされる。神と切り離された自立の宇宙としては置かれていない。出典:『バガヴァッド・ギーター』
世界は物質の側が展開したものだとされる。見る者としての精神は、その展開の外に置かれたままである。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
神の世界が語られ、そこに至ることが目指される。輪廻のなかの一区画としてではなく、神のもとという関係の側に置かれる。出典:『バガヴァッド・ギーター』/『バーガヴァタ・プラーナ』第三巻15章
赴く先の地誌を持たない。精神と物質を見分けることだけを論じる体系のため、この問いを立てない。関心は解放の仕組みにある。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
誰に捧げたかが問われる。同じ行いでも、神に向けて捧げられたかどうかによって意味が変わるとされている。出典:『バガヴァッド・ギーター』9章26節
善悪を神の定めとしては立てない。三つの性質がどう組み合わさるかによって、行いの質が決まると説明される。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
神との関わりのうちに置かれて生まれるとされる。目的は、神を知り、神へ向かっていくことのうちに見いだされる。出典:『バガヴァッド・ギーター』
見る者としての精神と物質とが取り違えられ、その状態が続いているために生じるとされる。外から与えられた目的は置かれない。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
苦しみは神との隔たりとして受け取られる。神に身を委ねることで、苦は消えなくともその意味を変えるとされる。出典:『バガヴァッド・ギーター』
苦しみを出発点に置く。精神と物質を取り違えていることが苦の原因であり、見分けがつけば苦は終わるとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)