この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
死によって身体は失われるが、真の自己(アートマン)は滅びず、行為の結果に応じて次の生を受ける。この繰り返しから解き放たれることが目指される。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』
子孫が供物と水を捧げる儀礼が定められており、先祖はそれを受け取るとされる。ただし解脱に至った魂は、その往き来の外に出る。出典:シュラーッダ(祖先供養)/『マヌ法典』(前2世紀〜後2世紀)
私が存在しなかったときはないと語られる。始まりを持たない自己が、身体を替えていくという形が取られる。出典:『バガヴァッド・ギーター』2章12節
名は、重ねて見られた側に属するとされる。真の自己は名によって増えも減りもしないと説かれている。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
祈りは真の自己に向かう途上に置かれる。最も高い段階では、祈る者と祈られる者の隔たりが解かれるとされる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7
意識のほうが根本だとされる。身体・生気・心・知の層を順に見ていき、最も内に歓喜の層が置かれている。出典:『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』第2章1〜5節(版により番号が異なる)
他者もまた同じ根本のものだとされる。分かれて見えることのほうが、重ねて見られた姿だと説かれている。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7
行いの結果は積み重なるが、知ることによって縛りが解けるとされる。決まりきったものとしては置かれない。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
ある。行いの結果が残り、真の自己があらためて身体を受ける。繰り返しには始まりが無く、終わらせることが目指される。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』
欲そのものを悪とはしない。ただし外へ向かう向きが続くかぎり、覆いは取れないままだと説かれている。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
真の自己は変わらず、世界の根本と一つであるとされる。日常で私と思われているものは、その上に重ねられた覆いとされる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7
世界の根本は一つで、それは真の自己と同じものだとされる。人格を持つ神は、その現れ方の一つとして置かれる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7
幸せは手に入れるものではなく、本来そうであるものとされる。覆いが取れたときに、おのずと現れる。求める向きが、そもそも逆になる。出典:『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』3章6節/『バガヴァッド・ギーター』2章47節
生きることは、取り違えを解いて本来の自己に気づいていく過程とされる。目的が外から与えられることはない。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』
世界は根本のものの現れとされる。心が作るのではなく、無明によって別のものが重ねて見られていると説かれる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章2節1/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
成功を、外に得たものでは測らない。取り違えが解けて本来の自己に気づくことが目指されている。外の尺度は用いられない。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論/『バガヴァッド・ギーター』2章47節
時のなかの移り変わりは、根本のものの上に重ねて見られたものとされる。根本の側は時に触れられない。出典:シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
世界は根本のものが姿を現したものとされる。日常に見える多様さは、その上に重なった現れだと説かれる。出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章2節1/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
天界も地獄も、行いに応じて赴く一時の滞在先とされる。解脱はそのどこかではなく、往き来そのものの外に置かれる。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』
果報を求めずに務めを果たすことが説かれる。最も高い段階では、行いの主体という見方そのものが解かれていく。出典:『バガヴァッド・ギーター』2章47節/シャンカラ『ブラフマ・スートラ註解』序論
過去の行いの結果として、真の自己があらためて身体を受ける。生まれること自体に目的は置かれず、繰り返しのなかの一場面とされる。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』
苦しみは過去の行いの結果として受け取られる。本来の自己は苦に触れておらず、取り違えが続くかぎり苦も続く。出典:ウパニシャッド/『バガヴァッド・ギーター』