同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
臨終に阿弥陀仏の来迎を受け、浄土に生まれる。輪廻の仕組みを説明するのではなく、そこから出る道として語られる。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)
身心を構成するものと、同じでも別でもない人格を立てた。輪廻するものを説明するための立場で、他の部派から強く批判された。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
浄土に往生した者は、仏のはたらきを得て再びこの世に還り、遺された者を導くと説かれる。往き来は一方通行ではない。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』
輪廻するものが何かという一点をめぐって立てられた立場で、死者と生者の交わりについては固有の主張を残していない。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
前の生を論じない。いま願いが向けられているという一点のほうが、繰り返し前に置かれることになる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』
この問いには踏み込まない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
名を残せない者として自分を見ている。そこから、名によらずに救われていく道が説かれることになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
称名は願い事の言葉ではないとされる。すでに向けられている仏の呼び声に、応えて称えるものだと説明されている。出典:浄土真宗本願寺派の公式解説/『無量寿経』第十八願
この問いには踏み込まない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられている。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
起源を論じない。自力では立ちゆかない者として自分を見るところから、委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
自力では他者を救えない者として自分を見る。そこから、ともに委ねられている者として他者が見られる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
自力のはからいでは定まらないとされる。委ねたところで、すでに向けられている願いのはたらきが説かれる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
繰り返しはあるが、そこから出ることが説かれる。往生した者は戻らず、還るとしても導く側として還るとされる。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』
ある。身心と同じでも別でもない人格を立て、それが繰り返しを担うとした。他の部派から強く批判された立場である。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
欲を断ちきれない者として自分を見る。断てないままで委ねる道が、そこから開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
自力では立ちゆかず、はからいを離れられない者として自分を見る。そこから、仏に委ねる道が説かれていく。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
要素と同じでも別でもない人格を立てた。無いとも在るとも言い切らないところに私を置こうとした試みである。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
阿弥陀仏は、世界を造った者ではなく、誓いを立てて仏となった存在として説かれる。救う相手として立つ。出典:『無量寿経』(法蔵菩薩の四十八願)
この点では部派に共通する枠組みを出ず、創造主については独自の主張を残していない。関心は輪廻の主体にある。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
この身のままでは満たされないと見る。委ねたところに、安らぎが与えられると説かれていく。自力での達成は置かれていない。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
幸せについては部派に共通する枠組みを用い、そこを離れる独自の主張を残してはいない。関心は輪廻の主体の側にあった。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
自力で積み上げることを目的としない。委ねたうえで、いまの生をそのまま生きることが説かれていく。はからいを離れることが説かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
生きることの意味については、部派に共通する枠組みをそのまま用い、そこを離れる独自の主張を残していない。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
この問いを主題としない。浄土は仏の願いによって建てられたものとされ、人の心が作るとは説かれていない。出典:『無量寿経』第十八願
この問いには踏み込まない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかのほうに置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
自力で成し遂げることを、そもそも目指さない。委ねることが、この道での成就とされている。成就は委ねた先に置かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
成功については部派に共通する枠組みを用い、そこを離れる独自の主張を残してはいない。関心は輪廻の主体の側にあった。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
時そのものを主題としない。臨終という一点と、そこに向けられている願いのほうが繰り返し語られている。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
この世界のほかに、数えきれない仏の世界があるとされる。宇宙は一つに限られないという形をとる。数は数えきれないとされる。出典:『阿弥陀経』/浄土三部経
宇宙の構造については部派に共通する枠組みをそのまま用い、そこを離れる独自の主張を残していない。関心は輪廻の主体に向く。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
西方に十万億の仏土を過ぎたところにあると経に説かれる。ただし遠さは隔たりを意味せず、念仏によって結ばれるとされる。出典:『阿弥陀経』「從是西方過十万億佛土」
世界の地誌については、部派に共通する枠組みをそのまま用い、そこを離れる独自の主張を残していない。関心は輪廻の主体の側にある。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
自力では善をなしきれない者として自分を見る。そこから、はからいを離れて委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
この問いに独自の説を立てない。関心は、輪廻する主体をどう説明するかという一点に置かれていたと伝えられる。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
生まれてきた理由よりも、この生をどう終えるかに重心が置かれる。目的は、浄土に往生することとして定められている。出典:浄土三部経/親鸞『教行信証』
繰り返しを担うものとして人格を立てたが、なぜ生まれるのかという目的については、部派に共通する枠組みを出ていない。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
自力では苦を抜けられない者として自分を見る。そこから、仏の力に委ねる道が開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
苦の説明そのものは部派に共通する枠組みを用い、そこを離れる独自の主張を残していない。関心は主体の側にある。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説