比較 / インドに始まる系統

仏教・浄土教と仏教・禅(道元)

同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。

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問いごとに並べる(22件)

死んだらどうなるのか

仏教・浄土教

臨終に阿弥陀仏の来迎を受け、浄土に生まれる。輪廻の仕組みを説明するのではなく、そこから出る道として語られる。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)

仏教・禅(道元)

生と死を、移り変わる二つの状態として問う立て方そのものを退ける。生死のほかに悟りを求めず、いまここを離れないことが説かれる。出典:『正法眼蔵』生死巻

死者と生者はつながれるのか

仏教・浄土教

浄土に往生した者は、仏のはたらきを得て再びこの世に還り、遺された者を導くと説かれる。往き来は一方通行ではない。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』

仏教・禅(道元)

死者を弔う儀礼は営むが、往き来そのものを説明しない。いまここを離れないことに重心があり、彼方との交信を語らない。出典:道元『正法眼蔵』生死巻/『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年

生まれる前の私はいたのか

仏教・浄土教

前の生を論じない。いま願いが向けられているという一点のほうが、繰り返し前に置かれることになる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』

仏教・禅(道元)

前と後を切り離して問うことを退ける。薪と灰の喩えのように、それぞれのありようとして語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

名を残すことに意味はあるのか

仏教・浄土教

名を残せない者として自分を見ている。そこから、名によらずに救われていく道が説かれることになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

残すか残さないかを問わない。いま坐り、いま調えるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

祈りは届くのか

仏教・浄土教

称名は願い事の言葉ではないとされる。すでに向けられている仏の呼び声に、応えて称えるものだと説明されている。出典:浄土真宗本願寺派の公式解説/『無量寿経』第十八願

仏教・禅(道元)

何かを願うために坐るのではないとされる。坐ることが手段ではなく、そのままであるという立て方を取る。出典:道元『弁道話』1231年

意識はどこから来るのか

仏教・浄土教

起源を論じない。自力では立ちゆかない者として自分を見るところから、委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

どこから来たかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年

他者とどう関わるのか

仏教・浄土教

自力では他者を救えない者として自分を見る。そこから、ともに委ねられている者として他者が見られる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

別に立てた目的として他者を置かない。食事を作ることも坐ることも、そのまま全体だとして扱われている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

運命は決まっているのか

仏教・浄土教

自力のはからいでは定まらないとされる。委ねたところで、すでに向けられている願いのはたらきが説かれる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』

仏教・禅(道元)

決まっているかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年

生まれ変わりはあるのか

仏教・浄土教

繰り返しはあるが、そこから出ることが説かれる。往生した者は戻らず、還るとしても導く側として還るとされる。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』

仏教・禅(道元)

前と後を切り離して問うことを退ける。薪が灰になるように、生と死はそれぞれのありようだとして語られる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案・生死巻

欲は満たすべきか、減らすべきか

仏教・浄土教

欲を断ちきれない者として自分を見る。断てないままで委ねる道が、そこから開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

減らすか満たすかを問わない。いま坐り、いま食べるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

私とは何か

仏教・浄土教

自力では立ちゆかず、はからいを離れられない者として自分を見る。そこから、仏に委ねる道が説かれていく。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

自己を習うとは自己を忘れることだとされる。私を突き詰めた先に、私が抜け落ちるという形で語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

神とは何か

仏教・浄土教

阿弥陀仏は、世界を造った者ではなく、誓いを立てて仏となった存在として説かれる。救う相手として立つ。出典:『無量寿経』(法蔵菩薩の四十八願)

仏教・禅(道元)

神を問わない。仏を外に置いて拝むという形をとらず、いま坐っていることのほうに重心が置かれている。出典:道元『正法眼蔵』

幸せとは何か

仏教・浄土教

この身のままでは満たされないと見る。委ねたところに、安らぎが与えられると説かれていく。自力での達成は置かれていない。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

幸せを別に立てない。いま坐っていること、食べていることが、そのまま満ちているとされる。別に探すべき先を立てない。出典:道元『正法眼蔵』

生きるとは何か

仏教・浄土教

自力で積み上げることを目的としない。委ねたうえで、いまの生をそのまま生きることが説かれていく。はからいを離れることが説かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

生きることに、別の目的を立てない。坐ることも食べることも、そのまま全体だとして扱われている。日々の所作がそのまま道になる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

現実は心が作るのか

仏教・浄土教

この問いを主題としない。浄土は仏の願いによって建てられたものとされ、人の心が作るとは説かれていない。出典:『無量寿経』第十八願

仏教・禅(道元)

作るか作らないかを問わない。薪と灰の喩えのように、いま現れているそのものとして受け取る構えを取る。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

成功とは何か

仏教・浄土教

自力で成し遂げることを、そもそも目指さない。委ねることが、この道での成就とされている。成就は委ねた先に置かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

到達すべき先を立てない。修行と悟りを分けず、いま行っていることがそのまま完成とされる。到達点は設けられていない。出典:道元『正法眼蔵』

時間とは何か

仏教・浄土教

時そのものを主題としない。臨終という一点と、そこに向けられている願いのほうが繰り返し語られている。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)

仏教・禅(道元)

存在がそのまま時であると読み替えた。時という器のなかに物が在る、という捉え方のほうを取らない。出典:道元『正法眼蔵』有時巻(1240年)

宇宙とは何か

仏教・浄土教

この世界のほかに、数えきれない仏の世界があるとされる。宇宙は一つに限られないという形をとる。数は数えきれないとされる。出典:『阿弥陀経』/浄土三部経

仏教・禅(道元)

世界の成り立ちを論じない。いま目の前にあるものが、そのまま全体だという形で繰り返し語られる。成り立ちは、問いとして立てられない。出典:道元『正法眼蔵』

天国・地獄・浄土はどこにあるのか

仏教・浄土教

西方に十万億の仏土を過ぎたところにあると経に説かれる。ただし遠さは隔たりを意味せず、念仏によって結ばれるとされる。出典:『阿弥陀経』「從是西方過十万億佛土」

仏教・禅(道元)

場所として問うことを退ける。地獄も浄土も、いまのありようを離れて別に在るものとしては語らず、問いの立て方のほうを戻す。出典:道元『正法眼蔵』

善悪はどこで決まるのか

仏教・浄土教

自力では善をなしきれない者として自分を見る。そこから、はからいを離れて委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

悪をなすなという禁止としては読まない。修行が現れているとき、悪はおのずとなされていないと説き替える。出典:道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)

なぜ生まれてくるのか

仏教・浄土教

生まれてきた理由よりも、この生をどう終えるかに重心が置かれる。目的は、浄土に往生することとして定められている。出典:浄土三部経/親鸞『教行信証』

仏教・禅(道元)

なぜ生まれたのかという問いの立て方を退ける。生まれていることそのものが、すでに欠けのないありようだとされる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

なぜ苦しみがあるのか

仏教・浄土教

自力では苦を抜けられない者として自分を見る。そこから、仏の力に委ねる道が開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条

仏教・禅(道元)

苦を消すべきものとしては扱わない。逃れようとする構えのほうを問い、いまのありようへ戻していく。出典:道元『弁道話』1231年