同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
臨終に阿弥陀仏の来迎を受け、浄土に生まれる。輪廻の仕組みを説明するのではなく、そこから出る道として語られる。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)
生と死を、移り変わる二つの状態として問う立て方そのものを退ける。生死のほかに悟りを求めず、いまここを離れないことが説かれる。出典:『正法眼蔵』生死巻
浄土に往生した者は、仏のはたらきを得て再びこの世に還り、遺された者を導くと説かれる。往き来は一方通行ではない。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』
死者を弔う儀礼は営むが、往き来そのものを説明しない。いまここを離れないことに重心があり、彼方との交信を語らない。出典:道元『正法眼蔵』生死巻/『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年
前の生を論じない。いま願いが向けられているという一点のほうが、繰り返し前に置かれることになる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』
前と後を切り離して問うことを退ける。薪と灰の喩えのように、それぞれのありようとして語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
名を残せない者として自分を見ている。そこから、名によらずに救われていく道が説かれることになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
残すか残さないかを問わない。いま坐り、いま調えるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
称名は願い事の言葉ではないとされる。すでに向けられている仏の呼び声に、応えて称えるものだと説明されている。出典:浄土真宗本願寺派の公式解説/『無量寿経』第十八願
何かを願うために坐るのではないとされる。坐ることが手段ではなく、そのままであるという立て方を取る。出典:道元『弁道話』1231年
起源を論じない。自力では立ちゆかない者として自分を見るところから、委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
どこから来たかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
自力では他者を救えない者として自分を見る。そこから、ともに委ねられている者として他者が見られる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
別に立てた目的として他者を置かない。食事を作ることも坐ることも、そのまま全体だとして扱われている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
自力のはからいでは定まらないとされる。委ねたところで、すでに向けられている願いのはたらきが説かれる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』
決まっているかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
繰り返しはあるが、そこから出ることが説かれる。往生した者は戻らず、還るとしても導く側として還るとされる。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』
前と後を切り離して問うことを退ける。薪が灰になるように、生と死はそれぞれのありようだとして語られる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案・生死巻
欲を断ちきれない者として自分を見る。断てないままで委ねる道が、そこから開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
減らすか満たすかを問わない。いま坐り、いま食べるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
自力では立ちゆかず、はからいを離れられない者として自分を見る。そこから、仏に委ねる道が説かれていく。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
自己を習うとは自己を忘れることだとされる。私を突き詰めた先に、私が抜け落ちるという形で語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
阿弥陀仏は、世界を造った者ではなく、誓いを立てて仏となった存在として説かれる。救う相手として立つ。出典:『無量寿経』(法蔵菩薩の四十八願)
神を問わない。仏を外に置いて拝むという形をとらず、いま坐っていることのほうに重心が置かれている。出典:道元『正法眼蔵』
この身のままでは満たされないと見る。委ねたところに、安らぎが与えられると説かれていく。自力での達成は置かれていない。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
幸せを別に立てない。いま坐っていること、食べていることが、そのまま満ちているとされる。別に探すべき先を立てない。出典:道元『正法眼蔵』
自力で積み上げることを目的としない。委ねたうえで、いまの生をそのまま生きることが説かれていく。はからいを離れることが説かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
生きることに、別の目的を立てない。坐ることも食べることも、そのまま全体だとして扱われている。日々の所作がそのまま道になる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
この問いを主題としない。浄土は仏の願いによって建てられたものとされ、人の心が作るとは説かれていない。出典:『無量寿経』第十八願
作るか作らないかを問わない。薪と灰の喩えのように、いま現れているそのものとして受け取る構えを取る。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
自力で成し遂げることを、そもそも目指さない。委ねることが、この道での成就とされている。成就は委ねた先に置かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
到達すべき先を立てない。修行と悟りを分けず、いま行っていることがそのまま完成とされる。到達点は設けられていない。出典:道元『正法眼蔵』
時そのものを主題としない。臨終という一点と、そこに向けられている願いのほうが繰り返し語られている。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)
存在がそのまま時であると読み替えた。時という器のなかに物が在る、という捉え方のほうを取らない。出典:道元『正法眼蔵』有時巻(1240年)
この世界のほかに、数えきれない仏の世界があるとされる。宇宙は一つに限られないという形をとる。数は数えきれないとされる。出典:『阿弥陀経』/浄土三部経
世界の成り立ちを論じない。いま目の前にあるものが、そのまま全体だという形で繰り返し語られる。成り立ちは、問いとして立てられない。出典:道元『正法眼蔵』
西方に十万億の仏土を過ぎたところにあると経に説かれる。ただし遠さは隔たりを意味せず、念仏によって結ばれるとされる。出典:『阿弥陀経』「從是西方過十万億佛土」
場所として問うことを退ける。地獄も浄土も、いまのありようを離れて別に在るものとしては語らず、問いの立て方のほうを戻す。出典:道元『正法眼蔵』
自力では善をなしきれない者として自分を見る。そこから、はからいを離れて委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
悪をなすなという禁止としては読まない。修行が現れているとき、悪はおのずとなされていないと説き替える。出典:道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)
生まれてきた理由よりも、この生をどう終えるかに重心が置かれる。目的は、浄土に往生することとして定められている。出典:浄土三部経/親鸞『教行信証』
なぜ生まれたのかという問いの立て方を退ける。生まれていることそのものが、すでに欠けのないありようだとされる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
自力では苦を抜けられない者として自分を見る。そこから、仏の力に委ねる道が開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
苦を消すべきものとしては扱わない。逃れようとする構えのほうを問い、いまのありようへ戻していく。出典:道元『弁道話』1231年