この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
生と死を、移り変わる二つの状態として問う立て方そのものを退ける。生死のほかに悟りを求めず、いまここを離れないことが説かれる。出典:『正法眼蔵』生死巻
死者を弔う儀礼は営むが、往き来そのものを説明しない。いまここを離れないことに重心があり、彼方との交信を語らない。出典:道元『正法眼蔵』生死巻/『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年
前と後を切り離して問うことを退ける。薪と灰の喩えのように、それぞれのありようとして語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
残すか残さないかを問わない。いま坐り、いま調えるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
何かを願うために坐るのではないとされる。坐ることが手段ではなく、そのままであるという立て方を取る。出典:道元『弁道話』1231年
どこから来たかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
別に立てた目的として他者を置かない。食事を作ることも坐ることも、そのまま全体だとして扱われている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
決まっているかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
前と後を切り離して問うことを退ける。薪が灰になるように、生と死はそれぞれのありようだとして語られる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案・生死巻
減らすか満たすかを問わない。いま坐り、いま食べるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
自己を習うとは自己を忘れることだとされる。私を突き詰めた先に、私が抜け落ちるという形で語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
神を問わない。仏を外に置いて拝むという形をとらず、いま坐っていることのほうに重心が置かれている。出典:道元『正法眼蔵』
幸せを別に立てない。いま坐っていること、食べていることが、そのまま満ちているとされる。別に探すべき先を立てない。出典:道元『正法眼蔵』
生きることに、別の目的を立てない。坐ることも食べることも、そのまま全体だとして扱われている。日々の所作がそのまま道になる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
作るか作らないかを問わない。薪と灰の喩えのように、いま現れているそのものとして受け取る構えを取る。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
到達すべき先を立てない。修行と悟りを分けず、いま行っていることがそのまま完成とされる。到達点は設けられていない。出典:道元『正法眼蔵』
存在がそのまま時であると読み替えた。時という器のなかに物が在る、という捉え方のほうを取らない。出典:道元『正法眼蔵』有時巻(1240年)
世界の成り立ちを論じない。いま目の前にあるものが、そのまま全体だという形で繰り返し語られる。成り立ちは、問いとして立てられない。出典:道元『正法眼蔵』
場所として問うことを退ける。地獄も浄土も、いまのありようを離れて別に在るものとしては語らず、問いの立て方のほうを戻す。出典:道元『正法眼蔵』
悪をなすなという禁止としては読まない。修行が現れているとき、悪はおのずとなされていないと説き替える。出典:道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)
なぜ生まれたのかという問いの立て方を退ける。生まれていることそのものが、すでに欠けのないありようだとされる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
苦を消すべきものとしては扱わない。逃れようとする構えのほうを問い、いまのありようへ戻していく。出典:道元『弁道話』1231年