同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
死とともに身心を構成するものは解体する。行為の力によって次の生が起こるが、移っていく「私」という実体は無い。出典:相応部12.1・12.2(縁起の定型と分別)
死と次の生のあいだに中有の期間があるとされる。そこで何が現れ、どう向き合えばよいかが、段階を追って詳細に説かれる。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ/原説はパドマサンバヴァに帰される)
生者が積んだ功徳を死者に振り向けられるとされる。ただし受け取れる境涯は限られ、誰にでも届くわけではないと説かれる。出典:『餓鬼事経』ティロークッダ経/届く境涯の限定は『ミリンダ王の問い』
死後の中間の期間に、生者が唱える言葉が死者に届き、その行き先を左右すると説かれる。導くことが生者の務めとされる。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
「私は過去に存在したのか」という問い自体が退けられる。正しくない向け方の例として名指しされている。出典:中部2(一切漏経)/相応部15.3(輪廻の始まりは知られない)
死と次の生のあいだの状態が、詳しく説かれている。そこで見たものによって、生まれる先が定まるとされる。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)の受生の中有
愚者の得る名声は、ただ害をなすと説かれる。利得と恭敬と名声は、安らぎを妨げるものとされている。出典:『法句経』72偈/相応部17.1(利得と恭敬相応)
名を求める心は、道を妨げるものとして扱われる。ただし教えを伝える働きそのものは重んじられている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
祈願で行き先は変わらないとされる。池に沈んだ岩に浮かべと祈っても浮かばない、という喩えで説かれている。出典:相応部42.6(アシバンダカプッタ経)
祈りの言葉と所作が細かく体系化されている。ただし向かう相手は、心の本性の現れとしても受け取られる。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)
識は縁って生じるとされる。眼と色によって生じたものを眼識と呼ぶように、条件のほうから名づけられる。出典:中部38(大愛尽経)/相応部12.2(縁起の分別)
心の本性はもともと明るく澄んでいるとされる。日常の心は、その上を流れていくものとして説かれてきた。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』
四方に慈しみを遍く満たすことが説かれる。慈・悲・喜・捨の四つが、限りない心として並べられる。出典:『慈経』小部・経集1.8/長部13(三明経・四無量心)
自分と他者を等しく見よ、と説かれる。さらに進んで、自他を入れ替えて考える修め方も説かれてきた。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』8章90偈・120偈
すべては過去の業ゆえだという説を、名指しで退けている。それでは、なすべきことへの努力が失われるからである。出典:増支部3.61(ティッターヤタナ経)
行いの結果は続くが、道を歩むことで変えられるとされる。段階を追った実践が細かく組まれている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
ある。ただし移っていく実体は無い。前の生と次の生は、同じでも別でもない連なりとして、火の喩えを用いて説明される。出典:相応部12.46(同一とも別とも説かない)/『ミリンダ王の問い』(灯から灯へ移る火の喩え)
ある。加えて、意図して生まれ変わり教えを継ぐ者がいるとされ、その人物を探し当てる仕組みが作られてきた。出典:『バルド・トドゥル』/『ダライ・ラマ自伝』山際素男訳・文藝春秋 1992年
渇きこそが苦の因とされる。快への渇き、在ることへの渇き、無くなることへの渇きの三つに分けられる。出典:相応部56.11(転法輪経・三種の渇愛)
欲を敵として退けるだけでなく、道の力へ転じる方法も説かれてきた。段階を追った実践が組まれている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
変わらない自己は無い。私と呼ばれているのは、絶えず生じては滅びていく要素の集まりにすぎないと説かれる。出典:『無我相経』相応部22.59
心の本性は明るく澄んだものとされる。日常の私は、その上を流れていく雲のようなものとして説かれてきた。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』/増支部 AN 1.49〜52
創造主を立てない。神々は輪廻のうちの一つの境涯とされ、人より長く生きるが、やはり無常な存在である。出典:イティヴッタカ83(天にも死の前兆が現れる)/長部21(帝釈天が自ら死没を語る)
仏や守り手が数多く説かれるが、いずれも心の本性の現れとして受け取ることが、同時に説かれ続けてきた。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)
楽を求めることそのものが苦の因とされる。渇きが尽きた状態が、最も高い安らぎと呼ばれている。求めないことが近道とされる。出典:『法句経』203・204偈
自分だけの幸せは長続きしないとされる。他者の幸せを願うことが、そのまま道に組み込まれる。他者の幸せが先に置かれる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
生きることは、苦から離れる道を歩むことだとされる。生そのものに目的が与えられているのではない。道を歩むこと自体が生とされる。出典:中部63(毒矢の喩え)/相応部56.11(四諦と八正道)
生きることは、自分の次の生をよくするためだけではないとされる。他者のために働くことが中心に置かれる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
外の世界を無いとはしない。ただし、私たちが見ているものは感官と心の働きを通ったものだと説かれる。出典:『無我相経』相応部22.59
現れは心の本性のあらわれとして説かれる。ただし、思いどおりに作れるという意味では説かれていない。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』
世の成功を目的としない。渇きが尽きることが、達成と呼べる唯一のものとして説かれている。達成の語は限定して使われる。出典:『法句経』203・204偈
自分だけの達成は目的にならないとされる。他者を導けるかどうかのほうが問われることになる。導けたかどうかが問われる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
すべては瞬間ごとに生じては滅びるとされる。生・住・滅の三つで一つの心の刹那をなすと説かれている。出典:『アビダンマッタ・サンガハ』第4章(心路の分析)
世界は生じ、とどまり、壊れ、空になる周期を繰り返すとされる。始まりの一点は置かれないままである。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』世間品(四劫)
世界に始まりは示されない。世界の広がりを問うことは、解くべきでない問いとして退けられている。答えないことが答えになる。出典:『マールンキヤ小経』中部63
世界は生じ、とどまり、壊れ、空になるという周期を繰り返すとされる。始まりの一点は置かれない。終わりもまた、次の始まりとされる。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』世間品(四劫)
生まれ変わる先が三十一に数えられ、地獄も天界もそのうちに入る。いずれも一時のもので、涅槃はその三十一の外にある。出典:『アビダンマッタ・サンガハ』第5章(欲界11・色界16・無色界4)
六つの境涯が輪として描かれ、地獄も天界もそのうちに置かれる。同時に心が作り出す像としても説かれ、二重に読まれてきた。出典:タイザー『Reinventing the Wheel』2006年/『バルド・トドゥル』
意図こそを業と呼ぶと説かれる。同じ行いでも、どういう心で行われたかによって善悪が分かれることになる。出典:増支部6.63(意図こそが業)/増支部10.176(十の善業道)
段階を追った実践の道が細かく組まれている。行いの善悪は、その道のどこに位置するかによって示される。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
創造主の意図によるのではない。無明と渇きによって、行いの結果が次の生を引き起こすという形で説明される。出典:相応部12.1・12.2
中間の期間を経て、行いに引かれて生を受けるとされる。何に引かれて宿るのかが詳細に説かれ、導きが用意されている。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
苦しみがあることが、教えの出発点そのものに置かれる。原因は渇きであり、それが尽きれば苦も尽きると説く。出典:四諦(苦・集・滅・道)/初転法輪
苦しみは輪廻の全体に行き渡るとされる。同時に、他者の苦を引き受ける修行が具体的に説かれてきた。出典:ロジョン(心の訓練法)のトンレン