同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
死とともに身心を構成するものは解体する。行為の力によって次の生が起こるが、移っていく「私」という実体は無い。出典:相応部12.1・12.2(縁起の定型と分別)
深層の識(阿頼耶識)が行為の種子を蓄え、生から生へ持ち越す。実体としてではなく、絶えず移り変わる流れとして説明される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
生者が積んだ功徳を死者に振り向けられるとされる。ただし受け取れる境涯は限られ、誰にでも届くわけではないと説かれる。出典:『餓鬼事経』ティロークッダ経/届く境涯の限定は『ミリンダ王の問い』
心の深層の働きを説明する体系であり、死者との交わりを主題としない。追善の儀礼は、のちの時代に別の系統から入る。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
「私は過去に存在したのか」という問い自体が退けられる。正しくない向け方の例として名指しされている。出典:中部2(一切漏経)/相応部15.3(輪廻の始まりは知られない)
身を執り取る識が、胎に宿るところから生が始まると説かれる。種子を持つ識が、生を越えて連なる。出典:『解深密経』第5章(阿陀那識)/世親『唯識三十頌』第2頌
愚者の得る名声は、ただ害をなすと説かれる。利得と恭敬と名声は、安らぎを妨げるものとされている。出典:『法句経』72偈/相応部17.1(利得と恭敬相応)
名への執着も、深い層に残された種子から現れるとされる。表の言動を抑えるだけでは足りないとされる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
祈願で行き先は変わらないとされる。池に沈んだ岩に浮かべと祈っても浮かばない、という喩えで説かれている。出典:相応部42.6(アシバンダカプッタ経)
祈りそのものを主題としない。心の働きの構造を説く枠組みのなかで、行がどこに位置するかが論じられている。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
識は縁って生じるとされる。眼と色によって生じたものを眼識と呼ぶように、条件のほうから名づけられる。出典:中部38(大愛尽経)/相応部12.2(縁起の分別)
深い層の識がすべての種子を持つとされる。表に現れる心は、その層からの現れとして説明されている。出典:世親『唯識三十頌』第2頌(阿頼耶識)/護法釈『成唯識論』
四方に慈しみを遍く満たすことが説かれる。慈・悲・喜・捨の四つが、限りない心として並べられる。出典:『慈経』小部・経集1.8/長部13(三明経・四無量心)
他者もまた識の現れとして捉えられる。ただしそれは、他者を軽んじてよいという意味では説かれていない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
すべては過去の業ゆえだという説を、名指しで退けている。それでは、なすべきことへの努力が失われるからである。出典:増支部3.61(ティッターヤタナ経)
行いの結果が深い層に種子として残り、次の現れを生むとされる。ただし固定した運命としては説かれない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
ある。ただし移っていく実体は無い。前の生と次の生は、同じでも別でもない連なりとして、火の喩えを用いて説明される。出典:相応部12.46(同一とも別とも説かない)/『ミリンダ王の問い』(灯から灯へ移る火の喩え)
ある。深層の識に行為の種子が蓄えられ、それが次の生を生む。移る実体ではなく、絶えず移り変わる流れとされる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
渇きこそが苦の因とされる。快への渇き、在ることへの渇き、無くなることへの渇きの三つに分けられる。出典:相応部56.11(転法輪経・三種の渇愛)
欲は、深い層に残された種子から現れるとされる。表に出た欲だけを抑えても足りないと説明されている。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
変わらない自己は無い。私と呼ばれているのは、絶えず生じては滅びていく要素の集まりにすぎないと説かれる。出典:『無我相経』相応部22.59
外の世界も私も、深層の識の現れとされる。私という感覚は、その深層を自分だと思い誤るはたらきから生じる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
創造主を立てない。神々は輪廻のうちの一つの境涯とされ、人より長く生きるが、やはり無常な存在である。出典:イティヴッタカ83(天にも死の前兆が現れる)/長部21(帝釈天が自ら死没を語る)
世界は識の現れとされるため、外に立って世界を造った者を置く必要がない、という形の説明に落ち着く。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
楽を求めることそのものが苦の因とされる。渇きが尽きた状態が、最も高い安らぎと呼ばれている。求めないことが近道とされる。出典:『法句経』203・204偈
幸せも苦しみも心の現れとされる。外の条件を整えることでは届かない、という形の説明になる。向きは外ではなく内へ戻される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
生きることは、苦から離れる道を歩むことだとされる。生そのものに目的が与えられているのではない。道を歩むこと自体が生とされる。出典:中部63(毒矢の喩え)/相応部56.11(四諦と八正道)
生きることは、心の深いところにある種子を変えていく過程として説明される。外の条件は主題にならない。変えるのは内の側になる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
外の世界を無いとはしない。ただし、私たちが見ているものは感官と心の働きを通ったものだと説かれる。出典:『無我相経』相応部22.59
外界の対象は識のあらわれだとされる。眼を病んだ人が、実在しない毛の輪を見てしまう例によって説明される。出典:世親『唯識二十論』第1偈/護法釈『成唯識論』
世の成功を目的としない。渇きが尽きることが、達成と呼べる唯一のものとして説かれている。達成の語は限定して使われる。出典:『法句経』203・204偈
成し遂げるとは、心の深いところにある種子が変わることだとされる。外の成果では測られない。測る場所が内側に移される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
すべては瞬間ごとに生じては滅びるとされる。生・住・滅の三つで一つの心の刹那をなすと説かれている。出典:『アビダンマッタ・サンガハ』第4章(心路の分析)
時は、識の現れが移り変わっていくこととして捉えられる。外を流れているものとしては立てられていない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
世界に始まりは示されない。世界の広がりを問うことは、解くべきでない問いとして退けられている。答えないことが答えになる。出典:『マールンキヤ小経』中部63
外の世界は識の現れとされる。心を離れて独立に在る宇宙を立てない、という形の説明に落ち着いていく。世界の側に基盤を求めない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
生まれ変わる先が三十一に数えられ、地獄も天界もそのうちに入る。いずれも一時のもので、涅槃はその三十一の外にある。出典:『アビダンマッタ・サンガハ』第5章(欲界11・色界16・無色界4)
外の世界そのものが心の現れとされるため、地獄も天界も、場所としてではなく心のありようとして説明し直されることになる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
意図こそを業と呼ぶと説かれる。同じ行いでも、どういう心で行われたかによって善悪が分かれることになる。出典:増支部6.63(意図こそが業)/増支部10.176(十の善業道)
行いの結果が心の深い層に残り、次の現れを生むと説かれる。善悪は、その積み重なりの側から説明される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
創造主の意図によるのではない。無明と渇きによって、行いの結果が次の生を引き起こすという形で説明される。出典:相応部12.1・12.2
深層の識に蓄えられた行為の種子が熟して、次の生が生じるとされる。外から与えられた目的としては説明されない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
苦しみがあることが、教えの出発点そのものに置かれる。原因は渇きであり、それが尽きれば苦も尽きると説く。出典:四諦(苦・集・滅・道)/初転法輪
苦しみもまた心の現れとされる。外の出来事そのものではなく、それを受け取る側の働きに原因が求められる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』