比較 / インドに始まる系統

仏教・上座部と仏教・禅(道元)

同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。

01

問いごとに並べる(22件)

死んだらどうなるのか

仏教・上座部

死とともに身心を構成するものは解体する。行為の力によって次の生が起こるが、移っていく「私」という実体は無い。出典:相応部12.1・12.2(縁起の定型と分別)

仏教・禅(道元)

生と死を、移り変わる二つの状態として問う立て方そのものを退ける。生死のほかに悟りを求めず、いまここを離れないことが説かれる。出典:『正法眼蔵』生死巻

死者と生者はつながれるのか

仏教・上座部

生者が積んだ功徳を死者に振り向けられるとされる。ただし受け取れる境涯は限られ、誰にでも届くわけではないと説かれる。出典:『餓鬼事経』ティロークッダ経/届く境涯の限定は『ミリンダ王の問い』

仏教・禅(道元)

死者を弔う儀礼は営むが、往き来そのものを説明しない。いまここを離れないことに重心があり、彼方との交信を語らない。出典:道元『正法眼蔵』生死巻/『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年

生まれる前の私はいたのか

仏教・上座部

「私は過去に存在したのか」という問い自体が退けられる。正しくない向け方の例として名指しされている。出典:中部2(一切漏経)/相応部15.3(輪廻の始まりは知られない)

仏教・禅(道元)

前と後を切り離して問うことを退ける。薪と灰の喩えのように、それぞれのありようとして語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

名を残すことに意味はあるのか

仏教・上座部

愚者の得る名声は、ただ害をなすと説かれる。利得と恭敬と名声は、安らぎを妨げるものとされている。出典:『法句経』72偈/相応部17.1(利得と恭敬相応)

仏教・禅(道元)

残すか残さないかを問わない。いま坐り、いま調えるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

祈りは届くのか

仏教・上座部

祈願で行き先は変わらないとされる。池に沈んだ岩に浮かべと祈っても浮かばない、という喩えで説かれている。出典:相応部42.6(アシバンダカプッタ経)

仏教・禅(道元)

何かを願うために坐るのではないとされる。坐ることが手段ではなく、そのままであるという立て方を取る。出典:道元『弁道話』1231年

意識はどこから来るのか

仏教・上座部

識は縁って生じるとされる。眼と色によって生じたものを眼識と呼ぶように、条件のほうから名づけられる。出典:中部38(大愛尽経)/相応部12.2(縁起の分別)

仏教・禅(道元)

どこから来たかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年

他者とどう関わるのか

仏教・上座部

四方に慈しみを遍く満たすことが説かれる。慈・悲・喜・捨の四つが、限りない心として並べられる。出典:『慈経』小部・経集1.8/長部13(三明経・四無量心)

仏教・禅(道元)

別に立てた目的として他者を置かない。食事を作ることも坐ることも、そのまま全体だとして扱われている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

運命は決まっているのか

仏教・上座部

すべては過去の業ゆえだという説を、名指しで退けている。それでは、なすべきことへの努力が失われるからである。出典:増支部3.61(ティッターヤタナ経)

仏教・禅(道元)

決まっているかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年

生まれ変わりはあるのか

仏教・上座部

ある。ただし移っていく実体は無い。前の生と次の生は、同じでも別でもない連なりとして、火の喩えを用いて説明される。出典:相応部12.46(同一とも別とも説かない)/『ミリンダ王の問い』(灯から灯へ移る火の喩え)

仏教・禅(道元)

前と後を切り離して問うことを退ける。薪が灰になるように、生と死はそれぞれのありようだとして語られる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案・生死巻

欲は満たすべきか、減らすべきか

仏教・上座部

渇きこそが苦の因とされる。快への渇き、在ることへの渇き、無くなることへの渇きの三つに分けられる。出典:相応部56.11(転法輪経・三種の渇愛)

仏教・禅(道元)

減らすか満たすかを問わない。いま坐り、いま食べるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

私とは何か

仏教・上座部

変わらない自己は無い。私と呼ばれているのは、絶えず生じては滅びていく要素の集まりにすぎないと説かれる。出典:『無我相経』相応部22.59

仏教・禅(道元)

自己を習うとは自己を忘れることだとされる。私を突き詰めた先に、私が抜け落ちるという形で語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

神とは何か

仏教・上座部

創造主を立てない。神々は輪廻のうちの一つの境涯とされ、人より長く生きるが、やはり無常な存在である。出典:イティヴッタカ83(天にも死の前兆が現れる)/長部21(帝釈天が自ら死没を語る)

仏教・禅(道元)

神を問わない。仏を外に置いて拝むという形をとらず、いま坐っていることのほうに重心が置かれている。出典:道元『正法眼蔵』

幸せとは何か

仏教・上座部

楽を求めることそのものが苦の因とされる。渇きが尽きた状態が、最も高い安らぎと呼ばれている。求めないことが近道とされる。出典:『法句経』203・204偈

仏教・禅(道元)

幸せを別に立てない。いま坐っていること、食べていることが、そのまま満ちているとされる。別に探すべき先を立てない。出典:道元『正法眼蔵』

生きるとは何か

仏教・上座部

生きることは、苦から離れる道を歩むことだとされる。生そのものに目的が与えられているのではない。道を歩むこと自体が生とされる。出典:中部63(毒矢の喩え)/相応部56.11(四諦と八正道)

仏教・禅(道元)

生きることに、別の目的を立てない。坐ることも食べることも、そのまま全体だとして扱われている。日々の所作がそのまま道になる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年

現実は心が作るのか

仏教・上座部

外の世界を無いとはしない。ただし、私たちが見ているものは感官と心の働きを通ったものだと説かれる。出典:『無我相経』相応部22.59

仏教・禅(道元)

作るか作らないかを問わない。薪と灰の喩えのように、いま現れているそのものとして受け取る構えを取る。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

成功とは何か

仏教・上座部

世の成功を目的としない。渇きが尽きることが、達成と呼べる唯一のものとして説かれている。達成の語は限定して使われる。出典:『法句経』203・204偈

仏教・禅(道元)

到達すべき先を立てない。修行と悟りを分けず、いま行っていることがそのまま完成とされる。到達点は設けられていない。出典:道元『正法眼蔵』

時間とは何か

仏教・上座部

すべては瞬間ごとに生じては滅びるとされる。生・住・滅の三つで一つの心の刹那をなすと説かれている。出典:『アビダンマッタ・サンガハ』第4章(心路の分析)

仏教・禅(道元)

存在がそのまま時であると読み替えた。時という器のなかに物が在る、という捉え方のほうを取らない。出典:道元『正法眼蔵』有時巻(1240年)

宇宙とは何か

仏教・上座部

世界に始まりは示されない。世界の広がりを問うことは、解くべきでない問いとして退けられている。答えないことが答えになる。出典:『マールンキヤ小経』中部63

仏教・禅(道元)

世界の成り立ちを論じない。いま目の前にあるものが、そのまま全体だという形で繰り返し語られる。成り立ちは、問いとして立てられない。出典:道元『正法眼蔵』

天国・地獄・浄土はどこにあるのか

仏教・上座部

生まれ変わる先が三十一に数えられ、地獄も天界もそのうちに入る。いずれも一時のもので、涅槃はその三十一の外にある。出典:『アビダンマッタ・サンガハ』第5章(欲界11・色界16・無色界4)

仏教・禅(道元)

場所として問うことを退ける。地獄も浄土も、いまのありようを離れて別に在るものとしては語らず、問いの立て方のほうを戻す。出典:道元『正法眼蔵』

善悪はどこで決まるのか

仏教・上座部

意図こそを業と呼ぶと説かれる。同じ行いでも、どういう心で行われたかによって善悪が分かれることになる。出典:増支部6.63(意図こそが業)/増支部10.176(十の善業道)

仏教・禅(道元)

悪をなすなという禁止としては読まない。修行が現れているとき、悪はおのずとなされていないと説き替える。出典:道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)

なぜ生まれてくるのか

仏教・上座部

創造主の意図によるのではない。無明と渇きによって、行いの結果が次の生を引き起こすという形で説明される。出典:相応部12.1・12.2

仏教・禅(道元)

なぜ生まれたのかという問いの立て方を退ける。生まれていることそのものが、すでに欠けのないありようだとされる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案

なぜ苦しみがあるのか

仏教・上座部

苦しみがあることが、教えの出発点そのものに置かれる。原因は渇きであり、それが尽きれば苦も尽きると説く。出典:四諦(苦・集・滅・道)/初転法輪

仏教・禅(道元)

苦を消すべきものとしては扱わない。逃れようとする構えのほうを問い、いまのありようへ戻していく。出典:道元『弁道話』1231年