同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
死と次の生のあいだに中有の期間があるとされる。そこで何が現れ、どう向き合えばよいかが、段階を追って詳細に説かれる。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ/原説はパドマサンバヴァに帰される)
生と死を、移り変わる二つの状態として問う立て方そのものを退ける。生死のほかに悟りを求めず、いまここを離れないことが説かれる。出典:『正法眼蔵』生死巻
死後の中間の期間に、生者が唱える言葉が死者に届き、その行き先を左右すると説かれる。導くことが生者の務めとされる。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
死者を弔う儀礼は営むが、往き来そのものを説明しない。いまここを離れないことに重心があり、彼方との交信を語らない。出典:道元『正法眼蔵』生死巻/『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年
死と次の生のあいだの状態が、詳しく説かれている。そこで見たものによって、生まれる先が定まるとされる。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)の受生の中有
前と後を切り離して問うことを退ける。薪と灰の喩えのように、それぞれのありようとして語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
名を求める心は、道を妨げるものとして扱われる。ただし教えを伝える働きそのものは重んじられている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
残すか残さないかを問わない。いま坐り、いま調えるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
祈りの言葉と所作が細かく体系化されている。ただし向かう相手は、心の本性の現れとしても受け取られる。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)
何かを願うために坐るのではないとされる。坐ることが手段ではなく、そのままであるという立て方を取る。出典:道元『弁道話』1231年
心の本性はもともと明るく澄んでいるとされる。日常の心は、その上を流れていくものとして説かれてきた。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』
どこから来たかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
自分と他者を等しく見よ、と説かれる。さらに進んで、自他を入れ替えて考える修め方も説かれてきた。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』8章90偈・120偈
別に立てた目的として他者を置かない。食事を作ることも坐ることも、そのまま全体だとして扱われている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
行いの結果は続くが、道を歩むことで変えられるとされる。段階を追った実践が細かく組まれている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
決まっているかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
ある。加えて、意図して生まれ変わり教えを継ぐ者がいるとされ、その人物を探し当てる仕組みが作られてきた。出典:『バルド・トドゥル』/『ダライ・ラマ自伝』山際素男訳・文藝春秋 1992年
前と後を切り離して問うことを退ける。薪が灰になるように、生と死はそれぞれのありようだとして語られる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案・生死巻
欲を敵として退けるだけでなく、道の力へ転じる方法も説かれてきた。段階を追った実践が組まれている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
減らすか満たすかを問わない。いま坐り、いま食べるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
心の本性は明るく澄んだものとされる。日常の私は、その上を流れていく雲のようなものとして説かれてきた。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』/増支部 AN 1.49〜52
自己を習うとは自己を忘れることだとされる。私を突き詰めた先に、私が抜け落ちるという形で語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
仏や守り手が数多く説かれるが、いずれも心の本性の現れとして受け取ることが、同時に説かれ続けてきた。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)
神を問わない。仏を外に置いて拝むという形をとらず、いま坐っていることのほうに重心が置かれている。出典:道元『正法眼蔵』
自分だけの幸せは長続きしないとされる。他者の幸せを願うことが、そのまま道に組み込まれる。他者の幸せが先に置かれる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
幸せを別に立てない。いま坐っていること、食べていることが、そのまま満ちているとされる。別に探すべき先を立てない。出典:道元『正法眼蔵』
生きることは、自分の次の生をよくするためだけではないとされる。他者のために働くことが中心に置かれる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
生きることに、別の目的を立てない。坐ることも食べることも、そのまま全体だとして扱われている。日々の所作がそのまま道になる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
現れは心の本性のあらわれとして説かれる。ただし、思いどおりに作れるという意味では説かれていない。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』
作るか作らないかを問わない。薪と灰の喩えのように、いま現れているそのものとして受け取る構えを取る。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
自分だけの達成は目的にならないとされる。他者を導けるかどうかのほうが問われることになる。導けたかどうかが問われる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
到達すべき先を立てない。修行と悟りを分けず、いま行っていることがそのまま完成とされる。到達点は設けられていない。出典:道元『正法眼蔵』
世界は生じ、とどまり、壊れ、空になる周期を繰り返すとされる。始まりの一点は置かれないままである。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』世間品(四劫)
存在がそのまま時であると読み替えた。時という器のなかに物が在る、という捉え方のほうを取らない。出典:道元『正法眼蔵』有時巻(1240年)
世界は生じ、とどまり、壊れ、空になるという周期を繰り返すとされる。始まりの一点は置かれない。終わりもまた、次の始まりとされる。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』世間品(四劫)
世界の成り立ちを論じない。いま目の前にあるものが、そのまま全体だという形で繰り返し語られる。成り立ちは、問いとして立てられない。出典:道元『正法眼蔵』
六つの境涯が輪として描かれ、地獄も天界もそのうちに置かれる。同時に心が作り出す像としても説かれ、二重に読まれてきた。出典:タイザー『Reinventing the Wheel』2006年/『バルド・トドゥル』
場所として問うことを退ける。地獄も浄土も、いまのありようを離れて別に在るものとしては語らず、問いの立て方のほうを戻す。出典:道元『正法眼蔵』
段階を追った実践の道が細かく組まれている。行いの善悪は、その道のどこに位置するかによって示される。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
悪をなすなという禁止としては読まない。修行が現れているとき、悪はおのずとなされていないと説き替える。出典:道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)
中間の期間を経て、行いに引かれて生を受けるとされる。何に引かれて宿るのかが詳細に説かれ、導きが用意されている。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
なぜ生まれたのかという問いの立て方を退ける。生まれていることそのものが、すでに欠けのないありようだとされる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
苦しみは輪廻の全体に行き渡るとされる。同時に、他者の苦を引き受ける修行が具体的に説かれてきた。出典:ロジョン(心の訓練法)のトンレン
苦を消すべきものとしては扱わない。逃れようとする構えのほうを問い、いまのありようへ戻していく。出典:道元『弁道話』1231年