同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
深層の識(阿頼耶識)が行為の種子を蓄え、生から生へ持ち越す。実体としてではなく、絶えず移り変わる流れとして説明される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
生と死を、移り変わる二つの状態として問う立て方そのものを退ける。生死のほかに悟りを求めず、いまここを離れないことが説かれる。出典:『正法眼蔵』生死巻
心の深層の働きを説明する体系であり、死者との交わりを主題としない。追善の儀礼は、のちの時代に別の系統から入る。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
死者を弔う儀礼は営むが、往き来そのものを説明しない。いまここを離れないことに重心があり、彼方との交信を語らない。出典:道元『正法眼蔵』生死巻/『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(曹洞宗宗務庁1988年)/石川力山「中世禅宗と葬送儀礼」1987年
身を執り取る識が、胎に宿るところから生が始まると説かれる。種子を持つ識が、生を越えて連なる。出典:『解深密経』第5章(阿陀那識)/世親『唯識三十頌』第2頌
前と後を切り離して問うことを退ける。薪と灰の喩えのように、それぞれのありようとして語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
名への執着も、深い層に残された種子から現れるとされる。表の言動を抑えるだけでは足りないとされる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
残すか残さないかを問わない。いま坐り、いま調えるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
祈りそのものを主題としない。心の働きの構造を説く枠組みのなかで、行がどこに位置するかが論じられている。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
何かを願うために坐るのではないとされる。坐ることが手段ではなく、そのままであるという立て方を取る。出典:道元『弁道話』1231年
深い層の識がすべての種子を持つとされる。表に現れる心は、その層からの現れとして説明されている。出典:世親『唯識三十頌』第2頌(阿頼耶識)/護法釈『成唯識論』
どこから来たかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
他者もまた識の現れとして捉えられる。ただしそれは、他者を軽んじてよいという意味では説かれていない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
別に立てた目的として他者を置かない。食事を作ることも坐ることも、そのまま全体だとして扱われている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
行いの結果が深い層に種子として残り、次の現れを生むとされる。ただし固定した運命としては説かれない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
決まっているかを問わない。いま坐っていることのほうへ、問いの向きがそのまま戻されることになる。出典:道元『弁道話』1231年
ある。深層の識に行為の種子が蓄えられ、それが次の生を生む。移る実体ではなく、絶えず移り変わる流れとされる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
前と後を切り離して問うことを退ける。薪が灰になるように、生と死はそれぞれのありようだとして語られる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案・生死巻
欲は、深い層に残された種子から現れるとされる。表に出た欲だけを抑えても足りないと説明されている。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
減らすか満たすかを問わない。いま坐り、いま食べるという所作そのものへ、問いの向きが戻されている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
外の世界も私も、深層の識の現れとされる。私という感覚は、その深層を自分だと思い誤るはたらきから生じる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
自己を習うとは自己を忘れることだとされる。私を突き詰めた先に、私が抜け落ちるという形で語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
世界は識の現れとされるため、外に立って世界を造った者を置く必要がない、という形の説明に落ち着く。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
神を問わない。仏を外に置いて拝むという形をとらず、いま坐っていることのほうに重心が置かれている。出典:道元『正法眼蔵』
幸せも苦しみも心の現れとされる。外の条件を整えることでは届かない、という形の説明になる。向きは外ではなく内へ戻される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
幸せを別に立てない。いま坐っていること、食べていることが、そのまま満ちているとされる。別に探すべき先を立てない。出典:道元『正法眼蔵』
生きることは、心の深いところにある種子を変えていく過程として説明される。外の条件は主題にならない。変えるのは内の側になる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
生きることに、別の目的を立てない。坐ることも食べることも、そのまま全体だとして扱われている。日々の所作がそのまま道になる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案/『典座教訓』1237年
外界の対象は識のあらわれだとされる。眼を病んだ人が、実在しない毛の輪を見てしまう例によって説明される。出典:世親『唯識二十論』第1偈/護法釈『成唯識論』
作るか作らないかを問わない。薪と灰の喩えのように、いま現れているそのものとして受け取る構えを取る。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
成し遂げるとは、心の深いところにある種子が変わることだとされる。外の成果では測られない。測る場所が内側に移される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
到達すべき先を立てない。修行と悟りを分けず、いま行っていることがそのまま完成とされる。到達点は設けられていない。出典:道元『正法眼蔵』
時は、識の現れが移り変わっていくこととして捉えられる。外を流れているものとしては立てられていない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
存在がそのまま時であると読み替えた。時という器のなかに物が在る、という捉え方のほうを取らない。出典:道元『正法眼蔵』有時巻(1240年)
外の世界は識の現れとされる。心を離れて独立に在る宇宙を立てない、という形の説明に落ち着いていく。世界の側に基盤を求めない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
世界の成り立ちを論じない。いま目の前にあるものが、そのまま全体だという形で繰り返し語られる。成り立ちは、問いとして立てられない。出典:道元『正法眼蔵』
外の世界そのものが心の現れとされるため、地獄も天界も、場所としてではなく心のありようとして説明し直されることになる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
場所として問うことを退ける。地獄も浄土も、いまのありようを離れて別に在るものとしては語らず、問いの立て方のほうを戻す。出典:道元『正法眼蔵』
行いの結果が心の深い層に残り、次の現れを生むと説かれる。善悪は、その積み重なりの側から説明される。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
悪をなすなという禁止としては読まない。修行が現れているとき、悪はおのずとなされていないと説き替える。出典:道元『正法眼蔵』諸悪莫作巻(1240年)
深層の識に蓄えられた行為の種子が熟して、次の生が生じるとされる。外から与えられた目的としては説明されない。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
なぜ生まれたのかという問いの立て方を退ける。生まれていることそのものが、すでに欠けのないありようだとされる。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
苦しみもまた心の現れとされる。外の出来事そのものではなく、それを受け取る側の働きに原因が求められる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
苦を消すべきものとしては扱わない。逃れようとする構えのほうを問い、いまのありようへ戻していく。出典:道元『弁道話』1231年