同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
死の直後に一人ひとりの裁きがあり、なお清めを要する者はその過程を経る。そして終わりの日に、身体を伴って復活するとされる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節/『カトリック教会のカテキズム』990・1030〜1032
死後の状態を細かく定義せず、神との関わりの深まりとして語る。人が神に似た者へ変えられていく過程の一部として死が置かれる。出典:新約聖書/ギリシア教父(エイレナイオス以降)
生者と死者は一つの交わりのうちにあるとされ、死者のための祈りが営まれる。聖なる人々への取り次ぎを願うことも認められる。出典:聖徒の交わり(旧訳・諸聖人の通功)/第二マカバイ記 12:45
死者のための祈りが定められた形で営まれる。生者と死者を分けず、一つの共同体として捉える見方が保たれている。出典:パニヒダ(ギリシャではパラスタス)/末尾に「永遠の記憶」
魂は神によって直接に創られるとされる。親から生み出されるのでも、前から在ったのでもないとされる。出典:『カトリック教会のカテキズム』366/ブラガ教会会議561年 第6条
同じく創られたものとする。加えて、その始まりから神へ近づいていく過程として人の歩みが見られている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
施しを人に見せるなと説かれる。人に見られて得た評価は、すでに報いを受け取ったものだとされる。出典:マタイ6章1〜4節/コリントの信徒への手紙一 4章5節
同じ教えを受け取る。加えて、隠れて行うことが神へ近づいていく過程として受けとめられ続けてきた。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
主の祈りが型として与えられている。聞き入れられないときは、求め方のほうが問い直されると説明される。出典:マタイ6章9〜13節/『カトリック教会のカテキズム』2734〜2741
短い祈りを絶えず繰り返す道が伝えられてきた。願うことよりも、名を憶え続けることが重んじられる。出典:ディアドコス『霊的知識と識別についての百章』(『フィロカリア』第1巻所収)
魂は神によって直接に創られるとされる。親から受け継ぐものではないと、はっきり区別されている。出典:『カトリック教会のカテキズム』362〜365
同じく神から与えられたものとする。加えて、神へ近づいていく過程のなかで捉える見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
隣人を自分のように愛せ、が最も大いなる戒めの一つとされる。律法の全体がここにかかると語られている。出典:マタイ22章37〜40節/ルカ10章25〜37節(良きサマリア人)
同じ戒めを受け取る。加えて、他者に仕えることが神へ近づいていく過程として受けとめられている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
自由は与えられたものとされる。恩寵は自由と競い合わず、むしろ自由を育てるものとして説明されている。出典:『カトリック教会のカテキズム』1731〜1742
同じく自由を認める。加えて、神へ近づいていく過程として人の歩みを受け取る見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
認めない。生は一度きりのものとされ、死の後に一人ひとりの裁きがあると説かれる。やり直す機会は置かれていない。出典:ヘブライ人への手紙 9:27
認めない。同じく一度きりの生を前提とし、死後は繰り返しではなく、神との関わりが深まっていく過程として語られる。出典:新約聖書/ギリシア教父(エイレナイオス以降)
節制が四つの枢要徳の一つに数えられる。快を否定するのではなく、程よさに保つことが説かれている。出典:『カトリック教会のカテキズム』1809・1866(七つの罪源)
同じく節制を重んじる。加えて、断食や祈りを神へ近づいていく過程として受け取る見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
人は身体と魂からなる一つの存在とされる。魂だけが本当の私だとはされず、終わりの日に身体を伴って復活する。出典:『カトリック教会のカテキズム』362〜365・990
人は神に似せて造られ、神に似た者へと変えられていく途上にあるとされる。私は完成した何かではなく、過程である。出典:新約聖書/アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)
一つの神が三つの位格として在るとされる。そのうちの子が人となったことが、教えの中心に置かれている。出典:ニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)
同じ三位一体を立てる。神の本質は知りえず、そのはたらきを通してのみ関われるという区別が保たれる。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
人の心は神のうちにしか安らがないとされる。地上の善は、そこへ向かう途上に置かれている。途上であることが前提になる。出典:アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』1718
幸せを、神との関わりが深まっていく状態として語る。到達点ではなく、過程として置かれる。終わりは設けられていない。出典:アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)
生きることは、神との交わりのうちに歩むことだとされる。隣人への愛が、その具体的な形になる。愛は行いのなかで確かめられる。出典:新約聖書/カトリック教会のカテキズム
生きることは、神に似た者へと変えられていく過程だとされる。終わりのない歩みとして語られている。完成は先に置かれない。出典:アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)
世界は神が無から造ったものとされる。心が作るのではなく、人もまた造られた側に置かれることになる。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298
同じく造られたものとする。加えて、世界を神のはたらきの現れとして受け取る見方が保たれている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
地上の成功は目的ではないとされる。神との交わりと、隣人への愛のほうが問われることになる。地上の達成は目的にならない。出典:アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』1718
成功を到達点として置かない。神に似た者へ変えられていく途上にあるかどうかが問われる。到達点としては置かれない。出典:アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)
時は世界とともに造られたとされる。世界より前に時があったのではない、という形が取られている。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298
同じく造られたものとする。加えて、神の永遠と人の時とを区別したうえで、両者の関わりが語られる。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
神が無から造ったとされる。世界には始まりがあり、造られたものとして神からはっきり区別される。世界は神と同じものにはならない。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298(無からの創造)
同じく無からの創造を立てる。世界は神のはたらきに貫かれているが、神そのものではないとされる。区別は保たれ続ける。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
天国と地獄に加えて、清めを受ける状態が置かれる。近年の教えでは、場所というより神との関係のありようとして説明される。出典:『カトリック教会のカテキズム』1023〜1037
地獄を、死後の場所に限らず、神を愛せないことの苦しみとして語る見方が保たれている。二つの場所を分けて置かない。出典:正教における地獄の理解
神を愛することと隣人を愛することが、最も大いなる二つの戒めとされる。律法全体がここにかかると語られる。出典:マタイ22章37〜40節/レビ記19章18節
同じ二つの戒めを受け取る。加えて、善悪を守ることが神へ近づいていく過程として受けとめられている。出典:グレゴリオス・パラマス(本質とエネルゲイアの区別)
神が意図して創造した。人は神との交わりのうちに生きるために存在し、その生は繰り返されない一度きりのものとされる。出典:創世記 1:27/ヘブライ人への手紙 9:27
同じく神の創造による。人が神に似た者へと変えられていく、その長い過程の始まりとして生が置かれている。出典:新約聖書/ギリシア教父(エイレナイオス以降)
苦しみは、人に自由が与えられていることの代償として説明される。加えて、キリストの受難と結ばれる。出典:『カトリック教会のカテキズム』309〜314
同じく自由に由来するとしたうえで、苦しみを神へ近づいていく過程として受け取る見方が保たれている。出典:エイレナイオス『異端反駁』第四巻37〜39章