この立場が、それぞれの問いに何と答えているかを縦に読みます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。
死の直後に一人ひとりの裁きがあり、なお清めを要する者はその過程を経る。そして終わりの日に、身体を伴って復活するとされる。出典:コリントの信徒への手紙一 15章42〜44節/『カトリック教会のカテキズム』990・1030〜1032
生者と死者は一つの交わりのうちにあるとされ、死者のための祈りが営まれる。聖なる人々への取り次ぎを願うことも認められる。出典:聖徒の交わり(旧訳・諸聖人の通功)/第二マカバイ記 12:45
魂は神によって直接に創られるとされる。親から生み出されるのでも、前から在ったのでもないとされる。出典:『カトリック教会のカテキズム』366/ブラガ教会会議561年 第6条
施しを人に見せるなと説かれる。人に見られて得た評価は、すでに報いを受け取ったものだとされる。出典:マタイ6章1〜4節/コリントの信徒への手紙一 4章5節
主の祈りが型として与えられている。聞き入れられないときは、求め方のほうが問い直されると説明される。出典:マタイ6章9〜13節/『カトリック教会のカテキズム』2734〜2741
魂は神によって直接に創られるとされる。親から受け継ぐものではないと、はっきり区別されている。出典:『カトリック教会のカテキズム』362〜365
隣人を自分のように愛せ、が最も大いなる戒めの一つとされる。律法の全体がここにかかると語られている。出典:マタイ22章37〜40節/ルカ10章25〜37節(良きサマリア人)
自由は与えられたものとされる。恩寵は自由と競い合わず、むしろ自由を育てるものとして説明されている。出典:『カトリック教会のカテキズム』1731〜1742
臨終の幻視の記録は古くからある。ただし公式の教えは、それを死後の世界が在ることの証拠としては扱っていない。出典:グレゴリウス1世『対話』第4巻/『カトリック教会のカテキズム』67
認めない。生は一度きりのものとされ、死の後に一人ひとりの裁きがあると説かれる。やり直す機会は置かれていない。出典:ヘブライ人への手紙 9:27
節制が四つの枢要徳の一つに数えられる。快を否定するのではなく、程よさに保つことが説かれている。出典:『カトリック教会のカテキズム』1809・1866(七つの罪源)
人は身体と魂からなる一つの存在とされる。魂だけが本当の私だとはされず、終わりの日に身体を伴って復活する。出典:『カトリック教会のカテキズム』362〜365・990
一つの神が三つの位格として在るとされる。そのうちの子が人となったことが、教えの中心に置かれている。出典:ニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)
人の心は神のうちにしか安らがないとされる。地上の善は、そこへ向かう途上に置かれている。途上であることが前提になる。出典:アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』1718
生きることは、神との交わりのうちに歩むことだとされる。隣人への愛が、その具体的な形になる。愛は行いのなかで確かめられる。出典:新約聖書/カトリック教会のカテキズム
世界は神が無から造ったものとされる。心が作るのではなく、人もまた造られた側に置かれることになる。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298
地上の成功は目的ではないとされる。神との交わりと、隣人への愛のほうが問われることになる。地上の達成は目的にならない。出典:アウグスティヌス『告白』第一巻第一章/『カトリック教会のカテキズム』1718
時は世界とともに造られたとされる。世界より前に時があったのではない、という形が取られている。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298
神が無から造ったとされる。世界には始まりがあり、造られたものとして神からはっきり区別される。世界は神と同じものにはならない。出典:『カトリック教会のカテキズム』296〜298(無からの創造)
天国と地獄に加えて、清めを受ける状態が置かれる。近年の教えでは、場所というより神との関係のありようとして説明される。出典:『カトリック教会のカテキズム』1023〜1037
神を愛することと隣人を愛することが、最も大いなる二つの戒めとされる。律法全体がここにかかると語られる。出典:マタイ22章37〜40節/レビ記19章18節
神が意図して創造した。人は神との交わりのうちに生きるために存在し、その生は繰り返されない一度きりのものとされる。出典:創世記 1:27/ヘブライ人への手紙 9:27
苦しみは、人に自由が与えられていることの代償として説明される。加えて、キリストの受難と結ばれる。出典:『カトリック教会のカテキズム』309〜314