同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
死から復活までの道筋は、スンナ派と同じ骨組みをとる。そのうえで、復活と裁きの場において、イマームによる執り成しがあると語られる点が異なる。出典:クルアーン/サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)
死から復活までのあいだ、隔ての状態(バルザフ)に置かれる。復活の日に身体を伴って起こされ、行いに応じた報いを受ける。出典:クルアーン 23章100節ほか
祈願に加えて、預言者の家系に連なる者への取り次ぎの願いが重んじられ、その墓所への参詣も広く行われている。出典:サドゥーク『イーティカーダート』第21章/イブン・クーラワイフ『カーミル・アッ・ズィヤーラート』(10世紀)
遺された者が死者のために祈願することは認められる。一方で、死者を呼び出そうとする行いは強く退けられる。出典:クルアーン/サヒーフ・ムスリム 1631(遺言の書)
同じ節を受け取りながら、実際の出来事としてではなく、理性や生来の傾きとして読む注釈が多いとされる。出典:クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
子孫が「われは汝らの主ではないか」と問われ、答えた場面が記される。読み方は一様ではないとされる。出典:クルアーン 7章172節(アラストの契約)
同じ枠組みを共有する。加えて、殉じた者の名を記憶し悼むことに、大きな意味が置かれてきた点が異なる。出典:『ズィヤーラト・アーシューラー』(『カーミル・アッ・ズィヤーラート』所収)
現世の生は、遊びと戯れと飾りと、互いへの誇示にすぎないと記される。誇示が名指しで挙げられている。出典:クルアーン 57章20節
同じ枠組みを共有する。加えて、預言者の家系に連なる者への取り次ぎの願いが重んじられてきた点が異なる。出典:サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)
われに祈れ、われは応えようと記されている。定時の礼拝と、時を選ばない願いの祈りが区別されている。出典:クルアーン 40章60節・4章103節
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手を通して知が保たれるという構えが置かれている点が異なる。出典:クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
魂について与えられた知識はわずかだと記されている。問うこと自体は退けられていないが、答えは限られる。出典:クルアーン 17章85節
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手に連なる者への敬いが、人と人の関わりのなかに置かれている。出典:クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
自分のために望むものを兄弟のために望むまでは、信仰者ではないと伝えられる。喜捨も義務とされる。出典:サヒーフ・ブハーリー 13/クルアーン 2章177節(喜捨)
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手を通して定めがどう受け取られるかが語られてきた点が異なる。出典:クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
善も悪も含めた定めを信じることが、信仰箇条の一つに数えられる。起こる前から記されているとされる。出典:サヒーフ・ムスリム 8a(ジブリールのハディース)/クルアーン 57章22節
同じく認めない。死後の道筋の骨組みをスンナ派と共有しており、繰り返しを説く立場はとらない。異なるのは取り次ぎの扱いである。出典:クルアーン/サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)
認めない。生は一度きりのものとされ、死から復活までのあいだは隔ての状態に置かれると説かれる。戻ってくる道は無い。出典:クルアーン 23章100節(バルザフ)
同じ枠組みを共有する。加えて、悼むことや耐えることに、より積極的な意味が置かれてきた点が異なる。出典:クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
断食は定められるが、極端な禁欲は戒められる。断食もし食べもする、と預言者が述べたと伝えられる。出典:クルアーン 2章183節/サヒーフ・ブハーリー 5063
基本の枠組みはスンナ派と共有する。加えて、導き手との結びつきが、自分が何者かを定める要素として置かれる。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
私は神に創られた僕であり、預けられた命をいつか返す者とされる。自らを主とすることは、強く戒められる。出典:クルアーン 51:56
同じ唯一の神を立てる。加えて、導き手を通して神の教えが保たれるという枠組みが置かれている点が異なる。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
神は唯一で、並ぶものが無いとされる。分けることも像にすることも許されず、最も重い戒めとされている。出典:クルアーン 112章(純正章)
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手への愛と、悼むことのうちにも意味が置かれてきた。悼むことにも意味が置かれてきた。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
現世の幸せは仮のものとされる。神に従うことのうちに、真の満ち足りがあると説かれている。現世と来世がはっきり分けられる。出典:クルアーン/ハディース
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手に倣って生きることが、具体的な指針として置かれている。倣うべき手本が示されている。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
生きることは、神に仕えることだとされる。日々の勤めと、他者への務めが、その具体的な形になる。勤めは日々に割り当てられる。出典:クルアーン 51:56/ハディース
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手を通して世界の秩序を読み解くことに、積極的な意味が置かれてきた。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
世界は神が「在れ」と言うことで在るとされる。人の心が作る余地は置かれず、造る側と造られる側が分けられている。出典:クルアーン 2章117節
同じ枠組みを共有する。加えて、正しさのために耐えられたかどうかが、強く重んじられてきた。耐えたかどうかが重んじられる。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
現世の成功は仮のものとされる。真の成功は、審判の日に報いを得ることだと説かれている。報いは審判の日に置かれる。出典:クルアーン/ハディース
同じ枠組みを共有する。加えて、時のなかで導き手が果たす役割について語られてきた点が異なっている。出典:クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
世界には定められた期限があるとされる。時は神のもとで数えられており、人の側からは測りきれない。出典:クルアーン 2章117節
同じ枠組みを共有する。世界の秩序を読み解くことに、より積極的な意味が置かれてきた点が異なる。読解そのものが重んじられる。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
神が在れと言えば在るとされる。天と地は神のしるしであり、読み取るべきものとして置かれている。読む務めが人に課される。出典:クルアーン 2章117節
同じ枠組みを共有する。加えて、預言者の家系に連なる者の取り次ぎによって行き先が変わりうることが語られる点が異なる。出典:クルアーン/サドゥーク『イーティカーダート』第21章(取り次ぎ)
楽園と業火が、それぞれ段階を持つ場所として具体的に描かれる。庭・川・木といった描写が、繰り返し細かく置かれている。出典:クルアーン 55章46節以下・56章27〜56節
理性によっても善悪は知りうるとする側に立つ。神は理に反することを命じないという枠組みが置かれている。出典:ムウタズィラ派の立場(アブドゥル・ジャッバール没1025年)
善悪は神が命じることによって決まるとする見方が、後に主流となった。理性が独自に定めるのではないとされる。出典:アシュアリー派の立場(アシュアリー没935年)
同じ枠組みを共有する。加えて、導き手に従って生きることが、生の目的のうちに位置づけられている点が異なる。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』
神が人を創り、地上における代理者として置いた。創られた目的は神に仕えることであると、経典に明示されている。出典:クルアーン 51:56/2:30
同じ枠組みを共有する。加えて、殉じた者の苦しみを記憶し、悼むことが信仰の中心に置かれてきた。出典:『ズィヤーラト・アーシューラー』(『カーミル・アッ・ズィヤーラート』所収)
苦しみは試練として置かれる。耐えることに報いがあるとされ、意味は現世で完結しないと説かれている。出典:クルアーン 2章155節ほか