同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
来世の教えを保ちながら、生きているうちに自我が死ぬことを重んじる。死は隔てが取り除かれ、神と向き合うことだと語られる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
死から復活までのあいだ、隔ての状態(バルザフ)に置かれる。復活の日に身体を伴って起こされ、行いに応じた報いを受ける。出典:クルアーン 23章100節ほか
聖者とされる人物の墓所へ参詣し、そこで祈ることに意味が置かれる。同じイスラムのなかで、これを退ける側と長く対立してきた。出典:聖者廟参詣(ズィヤーラ)
遺された者が死者のために祈願することは認められる。一方で、死者を呼び出そうとする行いは強く退けられる。出典:クルアーン/サヒーフ・ムスリム 1631(遺言の書)
同じ節を、前永遠に結ばれた契約として重んじる。いまの求めは、その記憶の呼び覚ましとして語られる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
子孫が「われは汝らの主ではないか」と問われ、答えた場面が記される。読み方は一様ではないとされる。出典:クルアーン 7章172節(アラストの契約)
名を消していくことが道とされる。自分が在るという意識そのものが、退けられる側に置かれることになる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
現世の生は、遊びと戯れと飾りと、互いへの誇示にすぎないと記される。誇示が名指しで挙げられている。出典:クルアーン 57章20節
神の名を繰り返し唱えることが道とされる。願いを叶えるためではなく、隔たりを取り去るために行われる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
われに祈れ、われは応えようと記されている。定時の礼拝と、時を選ばない願いの祈りが区別されている。出典:クルアーン 40章60節・4章103節
内側を澄ませていくことで、隔たりが取り去られるとされる。起源よりも、いま何に覆われているかが問われる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
魂について与えられた知識はわずかだと記されている。問うこと自体は退けられていないが、答えは限られる。出典:クルアーン 17章85節
他者への振る舞いを、内側の澄み具合の表れとして見る。外の作法と内の状態が、分けずに語られている。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
自分のために望むものを兄弟のために望むまでは、信仰者ではないと伝えられる。喜捨も義務とされる。出典:サヒーフ・ブハーリー 13/クルアーン 2章177節(喜捨)
定めを受け入れることが説かれる。抗うのではなく、そこに置かれた意味を読み取る側へ向きが変えられる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
善も悪も含めた定めを信じることが、信仰箇条の一つに数えられる。起こる前から記されているとされる。出典:サヒーフ・ムスリム 8a(ジブリールのハディース)/クルアーン 57章22節
来世の枠組みは保たれる。ただし死後の繰り返しよりも、生きているうちに自我が死んで生まれ直すことに重心が置かれる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
認めない。生は一度きりのものとされ、死から復活までのあいだは隔ての状態に置かれると説かれる。戻ってくる道は無い。出典:クルアーン 23章100節(バルザフ)
欲そのものより、心が何に向いているかが問われる。内側を澄ませていくことのほうへ重心が移される。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
断食は定められるが、極端な禁欲は戒められる。断食もし食べもする、と預言者が述べたと伝えられる。出典:クルアーン 2章183節/サヒーフ・ブハーリー 5063
自我が消え去り、神だけが残る状態が目指される。私が無くなることそのものが、道の到達点として語られている。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』(ファナー)
私は神に創られた僕であり、預けられた命をいつか返す者とされる。自らを主とすることは、強く戒められる。出典:クルアーン 51:56
在るのは神だけだとする語り方が現れる。世界も自分も、神のあらわれとして受け取られていくことになる。出典:イブン・アラビーの存在一性論
神は唯一で、並ぶものが無いとされる。分けることも像にすることも許されず、最も重い戒めとされている。出典:クルアーン 112章(純正章)
幸せは、自我が薄れて神との隔てがなくなることだとされる。恍惚として語られることもある。隔てが消えることが目指される。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
現世の幸せは仮のものとされる。神に従うことのうちに、真の満ち足りがあると説かれている。現世と来世がはっきり分けられる。出典:クルアーン/ハディース
生きることは、自我を薄めて神へ近づいていく道とされる。愛が、その道を語る言葉として使われる。愛は道の全体を貫いている。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
生きることは、神に仕えることだとされる。日々の勤めと、他者への務めが、その具体的な形になる。勤めは日々に割り当てられる。出典:クルアーン 51:56/ハディース
在るのは神だけだとする見方がある。世界は独立して在るのではなく、神の現れとして受け取られる。出典:イブン・アラビー(存在一性論)
世界は神が「在れ」と言うことで在るとされる。人の心が作る余地は置かれず、造る側と造られる側が分けられている。出典:クルアーン 2章117節
世で得たものは、道を妨げるものとして扱われることがある。神に近づくことだけが成就になる。得たものが妨げにもなりうる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
現世の成功は仮のものとされる。真の成功は、審判の日に報いを得ることだと説かれている。報いは審判の日に置かれる。出典:クルアーン/ハディース
いまこの瞬間に神の前に在ることが重んじられる。過ぎた時と来る時への心の散らばりが退けられる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
世界には定められた期限があるとされる。時は神のもとで数えられており、人の側からは測りきれない。出典:クルアーン 2章117節
世界は神が自らを顕したものだとされる。神と世界を切り離さない語り方が、この系統には強く現れる。世界は神を隠すものではない。出典:イブン・アラビーの存在一性論
神が在れと言えば在るとされる。天と地は神のしるしであり、読み取るべきものとして置かれている。読む務めが人に課される。出典:クルアーン 2章117節
楽園を報いとして求めること自体を低く見る流れがある。目指されるのは場所ではなく、神そのものとの近さのほうである。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
楽園と業火が、それぞれ段階を持つ場所として具体的に描かれる。庭・川・木といった描写が、繰り返し細かく置かれている。出典:クルアーン 55章46節以下・56章27〜56節
外に定められた規範を守りながら、内側の心の清めを重ねていく道が説かれる。行いの奥が問われることになる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』
善悪は神が命じることによって決まるとする見方が、後に主流となった。理性が独自に定めるのではないとされる。出典:アシュアリー派の立場(アシュアリー没935年)
神が知られることを望んだために世界と人が在るとされる。生まれることは、神へ還っていく道の出発点として置かれる。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
神が人を創り、地上における代理者として置いた。創られた目的は神に仕えることであると、経典に明示されている。出典:クルアーン 51:56/2:30
苦しみは、自我を削るための道具として受け取られる。神に近づくために欠かせないものとされている。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』/ルーミー『マスナヴィー』
苦しみは試練として置かれる。耐えることに報いがあるとされ、意味は現世で完結しないと説かれている。出典:クルアーン 2章155節ほか