同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
死者は時を経て個の名を離れ、家や土地を守る祖霊になっていくという形で受けとめられてきた。教義として定められたものではない。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
死者の行く先として黄泉国が語られる。明るい場所としては描かれず、生者の世界とのあいだに境が置かれ、行き来ができなくなった由来が語られる。出典:『古事記』上巻
盆や彼岸に死者が帰ってくるものとして迎えられ、送られる。教義として定められたものではなく、年ごとの行事の形で続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
黄泉から戻ろうとした話の末に、生者と死者の世界のあいだは大岩で塞がれる。行き来ができなくなった由来として語られる。出典:『古事記』上巻(黄泉比良坂・千引の石)
家の祖霊が生まれ替わって戻ってくるという受けとめが、民間の伝えのなかに広く見られると記されている。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
生まれる前を教義として定めない。いのちは産霊のはたらきによって生じるという語り方が置かれている。出典:『古事記』上巻 天地初発(高御産巣日神・神産巣日神)
三十三年を経ると、個の名を離れて祖霊になるとされる。名が消えることは、そこでは終わりではない。出典:柳田国男『先祖の話』1946年 第51節
名を残すことを教義として説かない。神々の名が伝えられていること自体は、記録として重んじられる。出典:『古事記』上巻(天地初発之時)
盆や彼岸に迎え、送る。願い事というより、来てもらうこと自体が営みの中心に置かれて続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
祝詞が古くから伝えられている。ただし神に願いを申し上げる形と、神の意を宣り下す形の両方が含まれる。出典:『延喜式』巻第八 祝詞(927年撰進)
この問いを立てない。見えないものが働いているという受けとめが、暮らしの行事の形で続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
起源を教義として定めない。神々のはたらきによって成ったという語り方のなかに、置かれたままである。出典:『古事記』上巻(天地初発之時)
生きている人だけでなく、亡くなった人も含めた関わりとして受けとめられる。家と土地が、その単位になる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
人と人の関わりを教義として定めない。ともに祓い、ともに祝うという営みの形のほうが受け継がれてきた。出典:『延喜式』巻第八 祝詞(大祓詞)
この問いを立てない。祓い、祈り、迎えるという営みのほうが、年ごとの行事の形で繰り返されてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
定めを教義として立てない。神々のはたらきによって成るという語り方のなかに、置かれたままである。出典:『古事記』上巻(天地初発之時)
死者は年月をかけて祖霊になっていくとされる。家のなかに生まれ直すという言い方も伝わるが、教義ではない。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
生まれ変わりを説かない。死者は黄泉へ行き、戻る道は物語のうえで大岩によって塞がれる。往き来そのものが断たれている。出典:『古事記』上巻(黄泉比良坂・千引の石)
この問いを立てない。実りを願い、収穫を祝うという営みのほうが、年ごとの行事として続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
欲を罪として数え上げない。祓い清めることが繰り返され、汚れを落とす営みのほうが前に置かれる。出典:『延喜式』巻第八 祝詞(大祓詞)
個としての私は年月をかけて薄れていき、祖霊という大きなまとまりに溶けていくものとして受けとめられてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
私とは何かを主題として論じない。いのちは神々と祖先から連なるものとして受けとめられ、定義は置かれない。出典:『古事記』上巻
身近な死者も、年月を経て神になっていくとされる。神と人のあいだに、越えられない断絶を置いていない。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
神は数多くあり、自然も祖先もはたらきそのものも神とされる。唯一の造り主という形は、そもそもとらない。出典:『古事記』上巻 天の石屋戸
家が続き、実りがあり、無事であることが、幸せの形として長く受けとめられてきた。暮らしの実感に近い形をとる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
幸せを定義しない。清らかであること、明るく直くあることが、望ましい状態とされてきた。定義よりも、状態が語られる。出典:『古事記』/祝詞
受け継いだいのちを次へ渡していくことが、生きることの形として受けとめられてきた。教義ではない。渡すこと自体が務めとされてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
生きる意味を教義として定めない。清らかであること、明るくあることが望ましいとされてきた。生きる理由は定義として置かれない。出典:『古事記』/祝詞
この問いを立てない。見えないものが働いているという受けとめが、暮らしの行事の形で続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
世界は神々のはたらきによって成ったとされる。人の心が作るという語り方は、そもそも取られていない。出典:『古事記』上巻(天地初発之時)
家が続き、務めを果たし、次へ渡せたことが、成し遂げたことの形として受け継がれてきた。渡せたかどうかが問われる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
成功を定義しない。事が成ることは、人の力だけではなく神の働きとして受けとめられてきた。人の力だけとはされない。出典:『古事記』/祝詞
年ごとにめぐる行事として時が受け取られてきた。三十三年という区切りも、その巡りのなかに置かれる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
天地の初めから神々が次々に成ったと語られる。時そのものを論じる形は、そもそも取られていない。出典:『古事記』上巻(天地初発之時)
宇宙の構造そのものを論じない。人が暮らす場と、その周りにある力とのつながりのほうが語られる。問いは暮らしの側を向く。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
天と地が分かれるところから語り出される。無から造られたのではなく、神が自ずと成ったとされる。造る者は先に置かれない。出典:『古事記』上巻(天地初発之時)
死者は遠くへ行くのではなく、山や里の近くにとどまり、時期が来ると帰ってくるものとして受けとめられてきた。教義ではない。出典:柳田国男『先祖の話』1946年(山中他界)
黄泉が地の下として語られ、海の彼方には常世が置かれる。いずれも賞罰の場としては描かれず、ただ隔たった場所として現れる。出典:『古事記』上巻(黄泉・常世)
教義として善悪を定めない。家や土地とのつながりを保つ営みが、行いの善し悪しを支える形で続いてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
汚れを祓い、清らかであることが重んじられる。善悪という語よりも、清と濁の対比によって語られてきた。出典:『延喜式』巻第八 祝詞(大祓詞)
いのちは祖先から連なって受け継がれるものとして受けとめられる。理由を説くのではなく、祝い、清めることが行われる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
いのちは産霊のはたらきによって生じるとされる。生まれる理由を教義として定めることは、そもそも行われない。出典:『古事記』上巻 天地初発
災いは、祀られない霊や自然の力によるものとして受けとめられてきた。鎮めることが対処の中心になる。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
苦しみの起源を教義として説かない。穢れは祓うものとされ、原因を問うよりも清めることが行われる。出典:『古事記』上巻/祓の儀礼