同じ系統のなかの二つの立場が、それぞれの問いに何と答えているかを並べます。文はいずれも問いのページから取ったもので、書き直していません。どちらが正しいかの判定はしません。
臨終に阿弥陀仏の来迎を受け、浄土に生まれる。輪廻の仕組みを説明するのではなく、そこから出る道として語られる。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)
死と次の生のあいだに中有の期間があるとされる。そこで何が現れ、どう向き合えばよいかが、段階を追って詳細に説かれる。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ/原説はパドマサンバヴァに帰される)
浄土に往生した者は、仏のはたらきを得て再びこの世に還り、遺された者を導くと説かれる。往き来は一方通行ではない。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』
死後の中間の期間に、生者が唱える言葉が死者に届き、その行き先を左右すると説かれる。導くことが生者の務めとされる。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
前の生を論じない。いま願いが向けられているという一点のほうが、繰り返し前に置かれることになる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』
死と次の生のあいだの状態が、詳しく説かれている。そこで見たものによって、生まれる先が定まるとされる。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)の受生の中有
名を残せない者として自分を見ている。そこから、名によらずに救われていく道が説かれることになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
名を求める心は、道を妨げるものとして扱われる。ただし教えを伝える働きそのものは重んじられている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
称名は願い事の言葉ではないとされる。すでに向けられている仏の呼び声に、応えて称えるものだと説明されている。出典:浄土真宗本願寺派の公式解説/『無量寿経』第十八願
祈りの言葉と所作が細かく体系化されている。ただし向かう相手は、心の本性の現れとしても受け取られる。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)
起源を論じない。自力では立ちゆかない者として自分を見るところから、委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
心の本性はもともと明るく澄んでいるとされる。日常の心は、その上を流れていくものとして説かれてきた。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』
自力では他者を救えない者として自分を見る。そこから、ともに委ねられている者として他者が見られる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
自分と他者を等しく見よ、と説かれる。さらに進んで、自他を入れ替えて考える修め方も説かれてきた。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』8章90偈・120偈
自力のはからいでは定まらないとされる。委ねたところで、すでに向けられている願いのはたらきが説かれる。出典:『無量寿経』第十八願/親鸞『教行信証』
行いの結果は続くが、道を歩むことで変えられるとされる。段階を追った実践が細かく組まれている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
臨終に仏が迎えに来るという描写があり、光と人影という点で報告と重なる。ただし体験の記録ではなく、経典の記述である。出典:『阿弥陀経』/『観無量寿経』上品上生(授手迎接)
死と次の生のあいだに現れる像として、あらかじめ詳細に説かれている。近年の報告との重なりが繰り返し指摘されてきた。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
繰り返しはあるが、そこから出ることが説かれる。往生した者は戻らず、還るとしても導く側として還るとされる。出典:曇鸞『往生論註』(往相・還相)/親鸞『教行信証』
ある。加えて、意図して生まれ変わり教えを継ぐ者がいるとされ、その人物を探し当てる仕組みが作られてきた。出典:『バルド・トドゥル』/『ダライ・ラマ自伝』山際素男訳・文藝春秋 1992年
欲を断ちきれない者として自分を見る。断てないままで委ねる道が、そこから開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
欲を敵として退けるだけでなく、道の力へ転じる方法も説かれてきた。段階を追った実践が組まれている。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
自力では立ちゆかず、はからいを離れられない者として自分を見る。そこから、仏に委ねる道が説かれていく。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
心の本性は明るく澄んだものとされる。日常の私は、その上を流れていく雲のようなものとして説かれてきた。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』/増支部 AN 1.49〜52
阿弥陀仏は、世界を造った者ではなく、誓いを立てて仏となった存在として説かれる。救う相手として立つ。出典:『無量寿経』(法蔵菩薩の四十八願)
仏や守り手が数多く説かれるが、いずれも心の本性の現れとして受け取ることが、同時に説かれ続けてきた。出典:『バルド・トドゥル』(川崎信定訳)
この身のままでは満たされないと見る。委ねたところに、安らぎが与えられると説かれていく。自力での達成は置かれていない。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
自分だけの幸せは長続きしないとされる。他者の幸せを願うことが、そのまま道に組み込まれる。他者の幸せが先に置かれる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
自力で積み上げることを目的としない。委ねたうえで、いまの生をそのまま生きることが説かれていく。はからいを離れることが説かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
生きることは、自分の次の生をよくするためだけではないとされる。他者のために働くことが中心に置かれる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
この問いを主題としない。浄土は仏の願いによって建てられたものとされ、人の心が作るとは説かれていない。出典:『無量寿経』第十八願
現れは心の本性のあらわれとして説かれる。ただし、思いどおりに作れるという意味では説かれていない。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』
自力で成し遂げることを、そもそも目指さない。委ねることが、この道での成就とされている。成就は委ねた先に置かれる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
自分だけの達成は目的にならないとされる。他者を導けるかどうかのほうが問われることになる。導けたかどうかが問われる。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
時そのものを主題としない。臨終という一点と、そこに向けられている願いのほうが繰り返し語られている。出典:『無量寿経』第十八願/『阿弥陀経』(臨終の来迎)
世界は生じ、とどまり、壊れ、空になる周期を繰り返すとされる。始まりの一点は置かれないままである。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』世間品(四劫)
この世界のほかに、数えきれない仏の世界があるとされる。宇宙は一つに限られないという形をとる。数は数えきれないとされる。出典:『阿弥陀経』/浄土三部経
世界は生じ、とどまり、壊れ、空になるという周期を繰り返すとされる。始まりの一点は置かれない。終わりもまた、次の始まりとされる。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』世間品(四劫)
西方に十万億の仏土を過ぎたところにあると経に説かれる。ただし遠さは隔たりを意味せず、念仏によって結ばれるとされる。出典:『阿弥陀経』「從是西方過十万億佛土」
六つの境涯が輪として描かれ、地獄も天界もそのうちに置かれる。同時に心が作り出す像としても説かれ、二重に読まれてきた。出典:タイザー『Reinventing the Wheel』2006年/『バルド・トドゥル』
自力では善をなしきれない者として自分を見る。そこから、はからいを離れて委ねる道が説かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
段階を追った実践の道が細かく組まれている。行いの善悪は、その道のどこに位置するかによって示される。出典:シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』(700年頃)
生まれてきた理由よりも、この生をどう終えるかに重心が置かれる。目的は、浄土に往生することとして定められている。出典:浄土三部経/親鸞『教行信証』
中間の期間を経て、行いに引かれて生を受けるとされる。何に引かれて宿るのかが詳細に説かれ、導きが用意されている。出典:『バルド・トドゥル』(14世紀カルマ・リンパ)
自力では苦を抜けられない者として自分を見る。そこから、仏の力に委ねる道が開かれていくことになる。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
苦しみは輪廻の全体に行き渡るとされる。同時に、他者の苦を引き受ける修行が具体的に説かれてきた。出典:ロジョン(心の訓練法)のトンレン